2010年09月26日

ゲゲゲまとめ 普通だけど普通じゃない #gegege #nhk #drama

サンバで忙しいからと言い訳していたが、結局浅草サンバカーニバルが終わってからもばたばたし、かつペースがつかめないまま、ろくに書かずにドラマが終わってしまった。私評を見てツイッターでフォローしてくれた方もいたのに、サボりまくりですみませんm(__)m。

佳品だったと思う。
さしたる大事件もなく、感情の激しい昂揚も落ち込みもなく。
水木しげる自身はいろいろな意味で「希有な」人であったかもしれないが、周囲の人々はみんな、布美枝をはじめとして
「あたりまえの、普通の人」
である。
普通の人が、普通に生活していく、ささやかな日常の、淡々とした話。
水木しげるという巨人をひとつの軸にしていながらも、見終わってそういう印象を持つ。

「普通であること」にこそ積極的な価値を見いだすドラマだったのだろう。
流れとしては、やはり「ちりとてちん」とかなり方向性は似ていると思える。スポットライトを浴びる側でなく、それを当ててあげる側として、自分の人生の「主人公」になる。
ちりとての喜代美は、ライトを浴びる側になりたいと憧れ続け、奮闘し続け、そしてささやかなれど実際に浴びる立場になって初めてそのことに気づいたが、布美枝は自分が舞台に立つことなど最初から夢にも思っていない。そういう人も、世の中にはたくさんいるのだろう。そうはいっても、自分の居場所は探している。誰かの役に立つことが自分の居場所を確保してくれることだということは、そういう人たちははじめから分かっていて、スポットライトを浴びられないことではなく、自分がだれかの役に立っていないかもしれないという思考に悩むのだ。

このドラマの視聴率がよかったのは、そういう、最初からスポットライトを浴びたり舞台に立ったりしようなどと思わない人が世の中には多く、そういう人々の共感を得たからと言うのも理由のひとつかもしれない。

ちりとての喜代美が最後に「おかあちゃんになる」宣言をしたとき、しかし、どうも視聴者の反応はよいものばかりではなかったようだ。それが不思議と言えば不思議。「他の人々を支えるという形で人生の主役になる」というメッセージが伝わりきらなかったのか。それをあまりにも土壇場に持って来すぎたってことかしら。仮に喜代美がもっと早い段階で引退宣言をし、その後にその「他の人々を支えるという形で人生の主役になる」様子をもう少し描写すればよかったのか。でもそれじゃドラマとしては間延びしただろうな。
あるいは「引退・おかみさん業専念」じゃなくたってよかったじゃないか、という説もあり、こっちは少し、私としてもそう思わないでもない。

若干脱線気味のような気もするが、「スポットライトを浴びたい」欲がしっかりあり、けれど最近になってようやく、人の喜びはむしろ他の人の役に立つことにあるのだなと思い至ってきた私にはやはり喜代美の方が共感度は高いかな。

…などと比べてみても意味はないのだった。

しかし、このドラマは、「他の人の役に立つことで自分を生きる」…「だけ」がテーマではない、と思う。むしろ、すべての人が自分らしくあれ、というメッセージだろう。こうでなければならない、というモデルはない。それぞれの人が、自分の心が本当に喜ぶことを追求していけばいいのだ、ということだ。それがたまたま、専業主婦として家庭を守る、という形であってもいい、ということだ。
これまでの朝ドラが、どちらかというと自分が道を切り開いて舞台に立つ女性ばかりを主人公にしてきたので、ここらで「なにもそうじゃなくたっていいんだよ」というメッセージを送ったのだとすれば、それは悪くない。

まあ時代性もあろうか。社会がどちらかというと内に向き、より落ち着いて静かなあり方を求めているのが昨今だと思う。それにたいし、もっと元気を出せ!がんばって前進せよ!みたいな煽りは、もう疲れてしまうよ、という感じ。そのことをもっと肯定的にとらえてもいいんじゃないの、というメッセージもあるかと思う。

土曜日の朝日新聞別冊で、「心に残る朝ドラヒロイン」をランキングしている記事があった。おはなはんの樫山文枝が一位で、おしんの田中裕子、ちゅらさんの国仲涼子、みおつくしの沢口靖子に続いて松下奈緒さんが5位に入っていた。解説記事によると、約2/3が男性からの票で、日本女性の美風をよく表している、とか来世で嫁にするならこういう人、とかいうコメント。女性陣はむしろ向井理を称賛していたといい、記事では「現代夫婦のないものねだりが高視聴率をもたらしたようにも思える」と書いていた。

それはあるかもな、と思う。そして、でもそれではこのドラマの伝えたいこととは違うんじゃないの、とも思う(というのは私個人の希望的観測で、ドラマはそもそも、古き良き形の夫婦の良さを伝えたかったのかもしれないが)。
「ないものねだり」では、むしろ逆じゃないの、と。
各人が、自分のあり方を肯定する、というのがむしろゲゲゲワールドの真髄だったのではあるまいか。

以前からしばしば書いているが、だから私はこのドラマの高視聴率にも実は複雑な気分である。佳品であるから異論はないが、メッセージはちょっと偏って伝わってしまっているのではなかろうか。

ドラマ内では数少ない存在である、自立した職業婦人(?)である郁子も、はるこも、そして教師となった藍子も、自分の選択、自分のあり方をきちんと肯定して前に進んでいる。そう思うと、このドラマが単なる専業主婦、夫唱婦随礼賛とは思えないのだが。

冒頭近くに、「「普通であること」にこそ積極的な価値を見いだす」と書いたが、「普通」という概念には、実はちょっと疑問を持ったりしている。これまた朝日新聞だが、夕刊の1面「ニッポン人脈記」というコーナーが、現在は「男と女の間には」というシリーズで、「性同一性障害」などの人々について書いている。その3回目、
「ほんとうのしあわせって?」
が印象深かった。
この方(性社会史を研究している方らしい)のブログに全文掲載されていた。http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201009080002/

この記事ではなだいなださんの「クヮルテット」という小説中、性転換手術をした医師の裁判で証人となった性転換者に検事が、あんな手術でほんもののしあわせが得られるなんて信じられないと言い放ち、証人の方が、じゃあほんとうのしあわせってどんなものなのか、と聞き返す場面が紹介されていた。
ここで私は思った、少しだけこのドラマのことも考えながら
「ふつうがシアワセなんだ、という言葉に多くの人は共感を寄せるだろう。でもそしたら『ふつうじゃないのはフシアワセ』ってことになってしまう」
記事の内容からは若干飛躍しているかもしれないが、たとえば性同一性障害…いや、「障害」という言葉自体が「普通でない」意味を内包しているかもしれない、ここは上記のブログの方が使っている「性別越境者」という言葉を使ってみよう…の人や、同性愛の人々について否定的な考えの人というのは、おそらく、そういう人々が「普通でない」と思い、その普通でないことを否定してしまうのだと思ったからである。

ここで私は、私自身が書いたことを訂正しなければならなくなる。布美枝たちの生活は、とくに華々しいことを求めてがんばったりしない、という意味で「普通」に見えるが、ドラマは実はそこに価値をおいているのではないのだ。というより、布美枝たちは少なくとも自分たちの生活が普通だとも普通でないとも思っていないだろう。でも、このドラマを見ている多くの人は、「普通がシアワセなんだよな」と思ってしまいがちなんではないだろうか。ましてや、「昔ながらの普通がいいのだ」とか思われそうでさえある。…というのは私の取り越し苦労かもしれないが。

このドラマはむしろ、「その人がその人らしくいることが一番いいのだ」というスタンスであるはずだから、どういうあり方であれ、肯定するはずなのである。いわゆる「普通」でもいい、「普通」でなくたっていい。というか普通ってなに?

いっそのこと、性別越境の人、同性愛の人を主人公にした朝ドラを作ってほしいくらいだ。…だがまあ、朝ドラのこの枠ではやはり難しいだろうな。いや、同性愛はさすがに朝の枠にはなじまないにしても、トランスジェンダーなら………やっぱむずかしいかな〜〜〜〜。

さて明日からの朝ドラは…なるべく番宣など事前の情報は見ないようにしているがどうしても目に入ってくる、その限りの印象では、それこそ「王道」なのかも?ということだ。自分の出生に関わる重大問題にショックを受けつつ、めげずにがむしゃらに突き進んでいく!スーパーポジティブなヒロイン。ま、でもそれもいいか。
お。(なるべく見ないようにといいながらつい公式サイトを見てしまった…)お兄ちゃん役は、芋たこのカンジくんかつちりとてのちび草々だった森田直幸くんではないの。大きくなったねえ。赤井英和さんも出るのか、ちょっと楽しみ。


posted by おーゆみこ at 20:27| Comment(3) | TrackBack(0) | ゲゲゲの女房 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月14日

第146回 三つ子の魂百まで #gegege #nhk #drama

ははは、浦木もやっぱり茂を「ガキ大将」と言ってたな。

ガキ大将はただイバったり人を従えたりしたいばかりではなく、「みんなを守る」つもりでもあるらしい。
でも基本はやっぱり「自分のやりたいようにやる」だからなあ。
貧乏でどうしようもなかった時も、お金が入ると戦艦模型とか買っちゃって、そこにはやはり「家族を守る」という気概以前に「やりたいことやる」があるわけで。

前にも書いたと思うけど、茂は基本が「コドモ」なので「省エネ」でもあるんだなあ。余計なこと考えない。余計なこと考える機能がついてない、もしくはそれが「未発達」と言う方が正しいかも。

動物行動学の竹内久美子さんという人の本で、画家と自然科学者は長生きする、なぜならコドモのままだからだ、という(かなり乱暴な要約ながら)ことを書いていたのを思い出す。
妖怪やら物の怪やらを信じる…というか「共存する」のもコドモの世界に生きているが故である。

かくして、竹内久美子さんの言うとおり、長生きしておられる。

父上修平さんもまあ好きなコトをして飄々として生きてきた(でそれなりには長生きした)わけだし、イカルさんは「好きなだけ怒って」生きているわけだし。

ふと「三つ子の魂百まで」という言葉も思い出す。
やっぱり小さい頃の自分が(なにか運悪く環境で歪まされない限り)「本来の自分」であり、基本的には、そのままの雰囲気で生きて行かれるのが人にとって幸せなことなのかもしれない、と思う。大人しい人は大人しくしているのが居心地がいいのだし、ガキ大将はガキ大将でいられれば一番落ち着くはず。子供の時分から自分の在り方でいても居心地が悪いとしたら、それはたとえば「大人しいなんてダメ」「ガキ大将はけしからん」という外からの価値観との不整合によるものであり、それさえなければどんなタイプの人でも、みんなそれぞれでシアワセにしていられるのではなかろうか。
posted by おーゆみこ at 12:33| Comment(1) | TrackBack(0) | ゲゲゲの女房 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

第145回 1ピクセルの私  #gegege #nhk #drama

結局今期はサボりまくってしまったまま、ドラマもそろそろ終わりを迎えようとしている。
私評を楽しみにしていてくださった皆さん、ほんとごめんなさい。
やっぱり夏季は多忙すぎて難しい。おまけに今年の夏は異常な猛暑で、エアコンなしで過ごしている(すごさざるを得ない)私としてはさすがに厳しすぎた…。今日も暑いですが、今夜からやっと本格的に秋の気配がやってくるようで、「乗り切った!」と言いたいところですが、そうもイバって言い切れないかも。体調もかなりヘバってたし、暑くてPCに向かえないし、そもそもPCも不調なんだけどそれを直すのも暑くてやる気しなかったし。
カーニバルが終わり、そして直後に自分のライブもあってそれも終わり、やっと一息ついたってとこで、やっとこさ秋もやってくる(でも今週末は年に一度のバケーション?で式根島に行くんだけど)。
****

ずっと書いてないと、何書いていいかわからなくなってしまう、ってのもありまして。たまに時間のあるときは、その日の放送がそれほどコメントしやすいものでなかったり(まあ今後の展開を見ないと何も語れないな、みたいな回で)。
そもそも極貧時代を抜けて安定してからは、安心してみていられるものの、ぐぐっとつかまれて「どうしても何か言いたい!」という衝動に駆られるようなこともあまりなかった、ってこともある。それでも時々は「思うところある」状態だったのに、そういうときはこちらにまったく余裕がなく。

あらすじどころか、ざざっと思い出す程度でしかなくなってしまうが、最近印象に残ったのはやっぱり戌井夫妻だったなあ。
ものごとは…、とりわけなにかを「作る」仕事は、世間に受ける、受けない、に左右されてしまう。時宜を賢く捕らえて、「今、人々に受けるもの」を作るのが賢いことである。それ自体は決して悪いことでも卑しいことでもない。受けるというのはつまり、人々が必要としているということなのだ。

だが、「好きなことを追求する」というのはそれとは違う。移り気な世の中が、たまたま同じ方向を向いてくれればいいが、まったく反対を向いてしまうことだってある。好きなことを追求する、にはそれを覚悟していなければならない。
極貧時代はそれを覚悟していた(せざるを得なかった)茂だが、たまたま(?)受けてしまっただけにそのことを見失った。でも、それを貫いている(貫かざるを得ない?)戌井にまた教えられたのだ。

そもそも「大勢と同じこと」をしていたのでは、なにも生まれない。ウケない、のはむしろ個性の表れと思ってもいいくらいである。それが中途半端に他に迎合しようとするとかえって失敗したりする。
ウケない分野を(たまたま)追求してしまったからこそ、第一人者になれるのである…だからといって、それこそ生きている間にその分野に他の人々の注目が集まるかどうかは保障されないのがつらいところだが。

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修平さんがワタシ的には一番好きなキャラだったので、亡くなってしまって寂しい。
修平さんが亡くなる前に見ていた夢で、映画が始まったとたんに終わってしまった…のはなんか切ないなあ。でもあれはTV放映の都合(?)で、実際…ってヘンか…修平さんが見ているあの場では、修平さんの人生をもっとじっくり追っていってくれてたのかしら。

ドラマ的造形なんだろうなとは思うが、このドラマでは登場人物がそれぞれ、ある意味での「信念」をもち、あまりブレずに生きていく。布美枝だって、信念がある。自分ではそれを信念などとは思っていないだろうが。「この人についていこう」という信念だ。
修平さんにも信念があった、「飄々と生きていこう」という信念…(?)
まあ言い換えればそれは「その人らしさ」ということだろう。本人にしてみたら、悩んだり迷ったり、右往左往しながら生きているのだろうが、俯瞰で見るとそれぞれの人物はいつでも「その人らしく」生きている。それはたぶん、このドラマに限らず、実際の世界でもみんなそうなのだ。
なにか不安だったり迷ったりしても、「でも結局これが私らしさだ」と思えば落ち着く気もする。私にはこうして生きていくことしかできないが、それが私という人間がこの世にいる意味なのだ、と。自分の好きでしていることが世の中にウケようがウケまいが、自分自身が有名になったりせず人を支えるだけの存在であろうが、あるいは何も特筆すべきものを生み出すこともなくただ淡々と生きているのであろうが、そんなこたカンケーないのである。私はこの世という一枚の絵(というか動画かな)を表す1ピクセルだ。光の存在を示すために必要な影の部分を構成しているのかもしれないし、光りすぎてトーンが飛んでるところにあるのかもしれないが、どちらであっても意味も価値もあるのである。

***
さてちょっとは「今日の回」にもコメントしようかな。
でもきょうは、「茂さんもそうはいっても娘を持つフツーの父親なのね」としか言いようがないような。というかある意味、コドモなんですねえ。ガキ大将のまま。
でもそういえば、源兵衛さんについてもかつて書いたことがあったなあ、中途半端に理解のある親になろうとするより、ぶつかる壁であったほうが実は子ども自身のためにもなる、というようなこと。壁にぶつかって初めて、いろいろなことを考え、覚悟を新たにしていくだろうからね。どんなにぶつかっても、戦っても、親と子は互いを愛しているだろうから、むしろ積極的にぶつかるぐらいでちょうどいいような気もする…親がまだ若くて強いうちは、ね。
posted by おーゆみこ at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲゲゲの女房 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする