佳品だったと思う。
さしたる大事件もなく、感情の激しい昂揚も落ち込みもなく。
水木しげる自身はいろいろな意味で「希有な」人であったかもしれないが、周囲の人々はみんな、布美枝をはじめとして
「あたりまえの、普通の人」
である。
普通の人が、普通に生活していく、ささやかな日常の、淡々とした話。
水木しげるという巨人をひとつの軸にしていながらも、見終わってそういう印象を持つ。
「普通であること」にこそ積極的な価値を見いだすドラマだったのだろう。
流れとしては、やはり「ちりとてちん」とかなり方向性は似ていると思える。スポットライトを浴びる側でなく、それを当ててあげる側として、自分の人生の「主人公」になる。
ちりとての喜代美は、ライトを浴びる側になりたいと憧れ続け、奮闘し続け、そしてささやかなれど実際に浴びる立場になって初めてそのことに気づいたが、布美枝は自分が舞台に立つことなど最初から夢にも思っていない。そういう人も、世の中にはたくさんいるのだろう。そうはいっても、自分の居場所は探している。誰かの役に立つことが自分の居場所を確保してくれることだということは、そういう人たちははじめから分かっていて、スポットライトを浴びられないことではなく、自分がだれかの役に立っていないかもしれないという思考に悩むのだ。
このドラマの視聴率がよかったのは、そういう、最初からスポットライトを浴びたり舞台に立ったりしようなどと思わない人が世の中には多く、そういう人々の共感を得たからと言うのも理由のひとつかもしれない。
ちりとての喜代美が最後に「おかあちゃんになる」宣言をしたとき、しかし、どうも視聴者の反応はよいものばかりではなかったようだ。それが不思議と言えば不思議。「他の人々を支えるという形で人生の主役になる」というメッセージが伝わりきらなかったのか。それをあまりにも土壇場に持って来すぎたってことかしら。仮に喜代美がもっと早い段階で引退宣言をし、その後にその「他の人々を支えるという形で人生の主役になる」様子をもう少し描写すればよかったのか。でもそれじゃドラマとしては間延びしただろうな。
あるいは「引退・おかみさん業専念」じゃなくたってよかったじゃないか、という説もあり、こっちは少し、私としてもそう思わないでもない。
若干脱線気味のような気もするが、「スポットライトを浴びたい」欲がしっかりあり、けれど最近になってようやく、人の喜びはむしろ他の人の役に立つことにあるのだなと思い至ってきた私にはやはり喜代美の方が共感度は高いかな。
…などと比べてみても意味はないのだった。
しかし、このドラマは、「他の人の役に立つことで自分を生きる」…「だけ」がテーマではない、と思う。むしろ、すべての人が自分らしくあれ、というメッセージだろう。こうでなければならない、というモデルはない。それぞれの人が、自分の心が本当に喜ぶことを追求していけばいいのだ、ということだ。それがたまたま、専業主婦として家庭を守る、という形であってもいい、ということだ。
これまでの朝ドラが、どちらかというと自分が道を切り開いて舞台に立つ女性ばかりを主人公にしてきたので、ここらで「なにもそうじゃなくたっていいんだよ」というメッセージを送ったのだとすれば、それは悪くない。
まあ時代性もあろうか。社会がどちらかというと内に向き、より落ち着いて静かなあり方を求めているのが昨今だと思う。それにたいし、もっと元気を出せ!がんばって前進せよ!みたいな煽りは、もう疲れてしまうよ、という感じ。そのことをもっと肯定的にとらえてもいいんじゃないの、というメッセージもあるかと思う。
土曜日の朝日新聞別冊で、「心に残る朝ドラヒロイン」をランキングしている記事があった。おはなはんの樫山文枝が一位で、おしんの田中裕子、ちゅらさんの国仲涼子、みおつくしの沢口靖子に続いて松下奈緒さんが5位に入っていた。解説記事によると、約2/3が男性からの票で、日本女性の美風をよく表している、とか来世で嫁にするならこういう人、とかいうコメント。女性陣はむしろ向井理を称賛していたといい、記事では「現代夫婦のないものねだりが高視聴率をもたらしたようにも思える」と書いていた。
それはあるかもな、と思う。そして、でもそれではこのドラマの伝えたいこととは違うんじゃないの、とも思う(というのは私個人の希望的観測で、ドラマはそもそも、古き良き形の夫婦の良さを伝えたかったのかもしれないが)。
「ないものねだり」では、むしろ逆じゃないの、と。
各人が、自分のあり方を肯定する、というのがむしろゲゲゲワールドの真髄だったのではあるまいか。
以前からしばしば書いているが、だから私はこのドラマの高視聴率にも実は複雑な気分である。佳品であるから異論はないが、メッセージはちょっと偏って伝わってしまっているのではなかろうか。
ドラマ内では数少ない存在である、自立した職業婦人(?)である郁子も、はるこも、そして教師となった藍子も、自分の選択、自分のあり方をきちんと肯定して前に進んでいる。そう思うと、このドラマが単なる専業主婦、夫唱婦随礼賛とは思えないのだが。
冒頭近くに、「「普通であること」にこそ積極的な価値を見いだす」と書いたが、「普通」という概念には、実はちょっと疑問を持ったりしている。これまた朝日新聞だが、夕刊の1面「ニッポン人脈記」というコーナーが、現在は「男と女の間には」というシリーズで、「性同一性障害」などの人々について書いている。その3回目、
「ほんとうのしあわせって?」
が印象深かった。
この方(性社会史を研究している方らしい)のブログに全文掲載されていた。http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201009080002/
この記事ではなだいなださんの「クヮルテット」という小説中、性転換手術をした医師の裁判で証人となった性転換者に検事が、あんな手術でほんもののしあわせが得られるなんて信じられないと言い放ち、証人の方が、じゃあほんとうのしあわせってどんなものなのか、と聞き返す場面が紹介されていた。
ここで私は思った、少しだけこのドラマのことも考えながら
「ふつうがシアワセなんだ、という言葉に多くの人は共感を寄せるだろう。でもそしたら『ふつうじゃないのはフシアワセ』ってことになってしまう」
記事の内容からは若干飛躍しているかもしれないが、たとえば性同一性障害…いや、「障害」という言葉自体が「普通でない」意味を内包しているかもしれない、ここは上記のブログの方が使っている「性別越境者」という言葉を使ってみよう…の人や、同性愛の人々について否定的な考えの人というのは、おそらく、そういう人々が「普通でない」と思い、その普通でないことを否定してしまうのだと思ったからである。
ここで私は、私自身が書いたことを訂正しなければならなくなる。布美枝たちの生活は、とくに華々しいことを求めてがんばったりしない、という意味で「普通」に見えるが、ドラマは実はそこに価値をおいているのではないのだ。というより、布美枝たちは少なくとも自分たちの生活が普通だとも普通でないとも思っていないだろう。でも、このドラマを見ている多くの人は、「普通がシアワセなんだよな」と思ってしまいがちなんではないだろうか。ましてや、「昔ながらの普通がいいのだ」とか思われそうでさえある。…というのは私の取り越し苦労かもしれないが。
このドラマはむしろ、「その人がその人らしくいることが一番いいのだ」というスタンスであるはずだから、どういうあり方であれ、肯定するはずなのである。いわゆる「普通」でもいい、「普通」でなくたっていい。というか普通ってなに?
いっそのこと、性別越境の人、同性愛の人を主人公にした朝ドラを作ってほしいくらいだ。…だがまあ、朝ドラのこの枠ではやはり難しいだろうな。いや、同性愛はさすがに朝の枠にはなじまないにしても、トランスジェンダーなら………やっぱむずかしいかな〜〜〜〜。
さて明日からの朝ドラは…なるべく番宣など事前の情報は見ないようにしているがどうしても目に入ってくる、その限りの印象では、それこそ「王道」なのかも?ということだ。自分の出生に関わる重大問題にショックを受けつつ、めげずにがむしゃらに突き進んでいく!スーパーポジティブなヒロイン。ま、でもそれもいいか。
お。(なるべく見ないようにといいながらつい公式サイトを見てしまった…)お兄ちゃん役は、芋たこのカンジくんかつちりとてのちび草々だった森田直幸くんではないの。大きくなったねえ。赤井英和さんも出るのか、ちょっと楽しみ。