2016年10月05日

べっぴんさん 私評:第3回 ふーん 

びっくりするようなことは何もないなあ。

<潔はすみれを浅田靴店に連れて行き、靴を作るところを見せてやってくれと頼むが、浅田は断り、すぐに家に送り届けろと言う。

町場で、賃上げを要求する労働者のデモがあり、二人はそれにまきこまれ、すみれははぐれてしまう。変な男に声をかけられ逃げるすみれ。
逃げた先で隠れていると、偶然明美が通りかかった。

板東家では先に帰宅した潔の報告で大騒ぎになっている。東京に行っている五十八にも連絡が行った。
 
すみれの頼みで明美が案内したのは浅田靴店だった。すみれは店に入って浅田を呼ぶが返事がない。興味深そうに店の中を見渡し、そこにあった靴を手に取ると、かかと部分が取れて落ちてしまった。そこへ浅田がやってくる気配がし、とっさに隠れるすみれ。
  
浅田は落ちているかかと部分をいぶかしみつつも、すみれに気づかず作業を始める。物陰からそれをじっと見ているすみれ。浅田の手さばきに見とれている。しかしふとした拍子に浅田に見つかってしまう。
  
浅田は板東家に連絡したらしく、すぐに迎えが来るのでそれまで紅茶でも飲んで待っていよう、と、シナモンスティックを添えた紅茶を上等そうなカップで淹れている。そしてすみれに穏やかに語りかける。
はなに初めて靴を作ったら、とても気に入ってくれて、ゆりやすみれが結婚するとき作って欲しいと頼まれた、靴屋冥利に尽きる、と言う浅田。
靴を作るところを見たかった理由として、刺繍が上手くできなかったから、というすみれに、はじめはだれでも上手くできない、でも思いを込めたら伝わる、それが一番大事なことなのだと諭す。持っていけばはなもきっと喜ぶ、と。

井口たちに連れられて板東家に帰るすみれ、出迎える使用人たち。ゆりは仁王立ちで
「全く何をしてるのすみれは!」
「………」
「…どやった、私の靴?」
「…かわいらしい出来てた」
にこっとするゆり。

一件落着……と思いきや、東京から急ぎ戻ってきた五十八の怒りは心頭。なぜだめといわれたことをするのだとすみれを怒鳴りつけ、それ以上に、潔やその父親野上に対して激怒をあらわにする>

困ったねえ。ハマれない。
デモに巻き込まれるのもなんか不自然。あんなのありえない。
……てなことが気になってしまうのが「困った」ところ。
  
あいかわらずギャグ担当?井口さんのボケも笑えないしなあ(役者さんのせいではない)。
BKのくせに!とどうしても思ってしまう、すみませんすみません。
  
浅田さんの穏やかに諭す場面は嫌いじゃないけど、まあ「ありきたり」だよね。
 
いかにも上質な、板東家の洋館のいろいろ、そして浅田さんの工房のレトロ感も美しく、それはいい。
思いを込めた、「上質で丁寧な」仕事、それも、もちろんいい(だがしかし「なんちゃって」をむしろ身上とする私は「佳いものを長く使う」という風なコンセプトは、いや、反対はしないが、少なくとも私のものではない)。
本日個人的に受けたのはゆりの仁王立ちからの「どやった私の靴?」かな。
昨日まで鷹揚さを見せそれが気に入っていた五十八さんだけど、まあ娘かわいさでこういうとき激怒するのも許す(←何様)。怒った顔、歪んだ顔をやらせたら生瀬さんは絶品だなあ。
  
困ったねえ。全体として「不快」になるほどではないとはいえ、正直、「つまらん」。私の「ツボ」を刺激してくれない。
DVDに撮ったてるてる自主再放送モードに入るのが時間の問題かもしれない。(今期再放送の「ごちそうさん」もあまり好きではないし)
posted by おーゆみこ at 08:46| Comment(0) | TrackBack(0) | カーネーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月30日

第150回 愛のエネルギーこそが存在

最終回を一つ残し糸子死す。
いきなりそうくるんか!と一瞬驚いたけれど、このドラマのコンセプトからしたら当然だと思い直した。

つまり今週のサブタイにもある「あなたの愛は生きています」だ。白のカーネーションの花言葉だそうな。

子供に対する母の愛、が最前面に出されてはいるが、もちろんそれだけではない。
糸子自身も、亡くなってしまった愛する人々、千代さん善ちゃんだけではもちろんなく、勝さんも泰蔵兄ちゃんも勘助も、玉枝おばちゃんも、そして北村も…そういう人々たちの「生きている愛」の中にずっといた。亡くなっても人の心の中に生きる、という言葉は手垢がついた陳腐な響きもあるが、でもそれは真実だ。

人間はその人の肉体的存在が全てなのではない。というよりそれは寧ろ、ヘンな譬えだが「神社」みたいなもの。単なる(?)依り代。
人間の本質は、これはこれまでも他のドラマの私評でも何度も何度も書いたが、生物学的存在の「人=ヒト」ではなく、その「間」にこそある。
相互作用。つまり、自分が発して、だれかが(直接的にせよ間接的にせよ)受け取るエネルギー、そのやりとりこそがその本質なのだ。それを「愛」と呼ぶ。愛はエネルギー。自分の中でも循環するが、外に出せば世界の中で循環する。そのエネルギーはいわば「不滅」だ。死なない。

エネルギーを放出すればするほど、その人の「生」は豊かになっていく。その人の存在は大きくなっていく。「人のためを考えて何かをする」というのはそういう愛のエネルギーを放出するということだ。それを受け取った人の中でエネルギーは不滅に生き続ける。つまり自分がどんどん拡大する。人のために何かをするというのは決して「自己犠牲」なんかではない。むしろ自分をより生かす術なのである。
でももちろん、「自分のために」なにかをすることが悪いわけではない。放出するためのエネルギーを確保するには必要だ。自分が楽しい、好きだ、ワクワクする!と思えば思うほどエネルギーは活性化する。そういうエネルギーは意図しなくなって外にあふれ出す。

「人のために」なにかやっているつもりでも、自分の中に自己犠牲のような意識があったり不機嫌だったりしたら、エネルギーは削がれてしまう。マイナスのエネルギーというものもある。
マイナス、あるいはネガティブなエネルギーを放出したら(たとえば人を中傷するとか)そのエネルギー循環に取り込まれるよね。そういう人もたまに見かける。気の毒にと思う。

そういや今朝ヘンな夢みたな。なんかアバズレっぽい若い女の子に絡まれて、身の危険さえ感じる状況になった。私もその娘に対して非難の言葉を投げつけていた。でもふと、その彼女の脚がとてもスラリと美しいことに気がつき、思わず(別に場を収めようとかの意図もなく、つい)「あらあなた脚がとってもきれいねえ!」と感嘆の言葉を発したら、その娘が突然攻撃態勢を緩めた…てな夢。なんか実際にもありそうな夢だな。

エネルギーを放出するのは「自分」だから、逆説的だが、相手は関係ない。自分一人でできることだ。人間関係に恵まれていないと感じている人にだってできる。相手が「与えてくれる」のを待っていてはだめだ。待つ必要はないし。自分が出せば良いだけである。エネルギーというのは不思議なもので、出せば出すほどまた湧いてくる。そして人に到達したら、自分にも返ってくる。必ずしもその人から返ってくるわけではない。エネルギーは何しろ「循環」だから、どこか他から回ってくる。だから相手が返してくれるとかくれないとか気にしないで出し続ける。「与える」というより、単に「出す」。

糸子はそうだったと思う。「与える」なんておこがましいことは考えてなかった。ただ、出した。自分がしたい、という動機。それでエネルギー放出しまくり。だからその循環が大きな大きな大きな流れになって、沢山の人を巻き込んだ。その全ての人の中に糸子は生きている。
病気から一度生還したあとに、世界がやたら「きれえに見えた」というのは、よくある、「有り難みを感じた」というだけのことではなく、自分が源となったエネルギーの循環が見えるようになったということなんだろう。「自分の存在」が世界に充ち満ちている。それが分かった。この「依り代」たる自分の肉体が滅びても、それはなくならない。

糸子は、つまり小篠綾子さんは、生来そのエネルギーが大きい人だったからその循環も大きくなったのだろうが、だれだってエネルギーを出すことはできる。「人のために」なにかをしてあげなきゃ、と力む必要も実はない。お金やものを提供しなきゃいけないということでもない。ボランティアで働かなきゃいけない、ってことでもない。自分がワクワクしているだけだっていいのだ。ワクワクしていたらそのワクワクを隠さずに、笑顔を見せれば良いだけだ。とりあえずそれだってエネルギーの放出。

たとえば、今週あさイチがない(あるいは録画放送になってる)ってだけでツイッターのTL上に嘆きが多々見られる。
「いのっちたちと感動を分かち合えないなんて!」
私もそう思うが、つまりそれは、いのっちたちは番組を見て感動して涙目になる、それを視聴者に隠さず伝える、それだけで「エネルギーを出し」、人々はそれを受け取って少し幸せになれたのだ。

余談だが、最近ひとつ懺悔したいことが。
ジムに行くとき急いでいて、エレベータに乗ろうとしたら、中学生か高校生ぐらいの小柄な男の子が、なにやらゴミを足で外に押し出そうとしていた。そして
「マナーが悪いなあ」
とつぶやいた。私は、彼がまだなにかしているのに急いで乗り込んでしまった私のことを言っているのかと思い、かつそのゴミは自分で捨てたのだと思い
ついつい
「自分でしょ」
とつぶやいてしまった。すると彼は気色ばみ、
「あんだと!気分わりいなあ、このババア! ジムに行くのかよ、無駄だよその体形で!」
とか罵詈雑言。私は急いでいたので相手にせずそのままエレベーターの扉を閉めて去ってしまったが、しばらくむかついていた。だがよくよく考えると、彼は誰か他の人が捨てたゴミを外に出そうとしてくれていたのだと思えてきた。それで、これは自分のゴミじゃないぞというアピールで「マナーが悪いな」とつぶやいたのであろう。なのに私が酷いことを言ってしまった。
それからずっとそのことが気にかかって仕方がない。心の中でずっと謝っている。ごめんね。この誤解を解きたい。ツイッターででも書いたらもしかして届くかしらん?

この余談は、もちろん、マイナスエネルギーを放出するとその結果はやっぱりマイナスが返ってくること、の例として書いたのであるが。

さて余談はともかく、明日の最終回は、愛のエネルギーとして存在し続ける糸子の姿を感じることになるのだろうと確信。例によって土曜日で朝から仕事、化粧のタイミングも難しいが、明日は涙はないかもしれない。私評は明日明後日はたぶん書く時間ない。でも近いうち書きます。

P.S.ツイッターでも書いたけど、この86歳もまじ「奇跡」! またアコガレの対象ができてしまった。もっとも私には80代でバタフライの方がまだ実現可能性はあるけど。
posted by おーゆみこ at 13:15| Comment(1) | TrackBack(0) | カーネーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月27日

第147話 支えに気づき豊かな人間関係を

いいなあ、サロン。人が気軽に集まってこれるようなオープンな家というのは夢。
私には今はそんなん芽もないけど、ほんとに望む夢ならきっといつのまにかそっち方向に行くに違いない。言霊作っとこ!

母親を亡くしたときより遙かにこたえた譲の父親の死。「いよいよ自分の力だけで背負わなければならなくなったことがこたえている」と糸子。
それはつくづく思うな。父であるか母であるかという問題ではなく、また養う会社や家族があるかないかということでもなく、自分が世代の先頭になってしまったということ。もう誰かの「子供」じゃなくなってしまった。その心細さ。

だがそれはだれでもが通る道。
同じ気持ちを味わった「同志」はたくさんいる。そして
群れたり慰め合うたりしているうちに弱い人間でもなんとかやっていくもんや。
…そうだよね。
悲しいことに出会わない人間なんていない。
悲しいとき、人はたいがい、「自分は弱い」と思う。強い人なら悲しまないだろうと。
でも実際、哀しみを感じない強い人なんていないんだよね。人間はみな、弱くて、そして強い。
一人で立っているように見える「強い」人も、きっと誰かや何かの存在に支えられている。それに気づいている人が実は本当に「強い」のかも。自分の弱さを認められるのが本当の強さ、とかそういえばよく聞くね。
自分一人で立っているつもりになっている、立っていなきゃいけない、と思っている人は、実は自分がボロボロになっていてもそれを認めないから、どこかで一気に崩れてしまうかもしれない。

糸子は傍目に「強い」人間だったが、常に誰かに助けられていて、そのことにちゃんと気づいている。たとえばそれは奈津だったかもしれない。結婚式なのに歩けなくなってしまった糸子を背負って式場に連れて行き、自分の衣装まで着せてやる。豚とか罵りながらも。奈津も糸子も互いに助けられて、そういうとき互いにデレデレと礼を言い合ったりしないが、それでもきっと深く感謝している。そういう支えだって良いのだ。戦友のような存在。

人は一人では生きられない。

「キラキラをはがされて、むきだしになってしまった四十男の本性は、あんたが思ってるよりよっぽどキレエなんやで」

よれよれになって、突っ張りきれなくなって、そして支えられていることに気づく。
それが幸せなんだと思う。

なにか大層なことを成し遂げたから満足な人生、なのではなく、なにか一生懸命やろうとして、だからこそ傷ついたり沈んだりし、だからこそ周囲の人々の支えに気づき、自分も他の人の支えになろうとし、そうやって豊かな人間関係が築かれていく…のが幸せな人生なのだと思う。
人は不死身ではないから、家族や親しい人たちも亡くなってしまうこともある。それでもそれは失われたのではない。人間関係というのは実はその人の物理的存在ではなく、自分とその人の間の相互の「交流」という目に見えないものが本質で、すべて「自分の所にある」ものなので、自分が愛し関心を持ち感謝している限りそれはなくならない。
糸子の周りにはまだお父ちゃんもお母ちゃんも泰蔵兄ちゃんも勝さんも北村さんもいるのである。
posted by おーゆみこ at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | カーネーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする