2016年11月21日

#べっぴんさん あらすじ&私評 第43回:紀夫もまた居場所を求めている  #NHK #朝ドラ

最後の紀夫の一言で「ああ、そうか…」

<帰還してきた紀夫に喜代も感涙。

五十八達もすみれの家に集まり、盛大に生還祝いをやろう、と盛り上がる。
新しい方の店でやろう、とすみれ。だが紀夫は
「店…って?」
すみれが店をやっているという話を始めて聞いた紀夫は、苦労をかけたな、というが
「ぼくが帰ってきたんやから、もう大丈夫や」
板東営業部の現況について五十八に聞く紀夫。統合されてなくなってしまった、と聞いて、僕が立て直します、と紀夫。
だが、現在がんばっている潔やゆりのことを聞いて、なにか顔が曇ってしまう紀夫。
  
夜、ふたりきりになってから、紀夫は、列車の中で神戸の空襲などの噂を聞き、すみれとさくらのことが心配でならなかった、という。
「…この国は…かわったなあ」
「…そやね…」
すみれたちに無事会えた喜びよりも、なぜか沈んだ顔の紀夫。
  
翌日。浅田を含めた商店街の人々がくちぐちに紀夫の生還を祝う。そこへ紀夫の両親がやってきて、紀夫の名を呼びながら泣いてすがりつく母親、言葉少なながら感激している風の父親に、見ている一同も涙ぐむ。

新しい店に歓迎会の準備ができている。紀夫を拍手で迎える一同。深々と礼をする紀夫。
歓迎会が始まり、進駐軍からも手に入れてきたらしい食料が並ぶ。

だが、外でさくらをあやす栄輔の姿を複雑な顔でじっと見る紀夫。
勝二や昭一が話しかけるが、
「女ばかりでこないなところを借りて、本格的な商売をやるなんて。それを男が笑ってみているなんて。心配やないんですか。僕にはよう理解できません」
と言ってしまう紀夫。

あんなこと言って、みんなが気を悪くしてしまうではないかと、帰路を急ぐ紀夫を追いかけるようにしながら言うすみれ。
紀夫は、自分は収容所で、早う日本に帰って守ってやらなければ、とずっと心配していた、と苛立ったように言う。
あんないいところ、家賃だって高いのだろうという紀夫に、家賃は商店街の皆さんが大家さんに交渉してくれた、子連れの女性達が集まれば商店街も活性化するだろうから、と、とすみれ。

だが紀夫は
「すみれ…。簡単に人を信用したらあかん」

そして、僕が働く、仕事を探さなければ、と紀夫。仕事を探すって何で?と驚くすみれ。
板東営業部は潔さんに任せた方がいいと思う、と紀夫。紀夫さんが板東営業部の後継者ではないか、みんな待っていたのだ、とすみれ。
だが紀夫は、潔さんやゆりさんかて後継者や、

「ぼくの…出る幕はない」>
  
なんだ紀夫は、わからずやキャラ?と思ってしまったけど、最後の一言で納得。
やっぱりこのドラマのテーマは「自分の居場所」なんだな。
 
紀夫も、つらい収容所生活で、自分の生きる意味を模索せざるを得ず、その答えは「すみれやさくらを守る」役割だった。
ところがいざ帰ってきてみたら、自分がいなくてもみんな、「ちゃんとやっている」。すみれたちは他の人々に十分守られているし、自立もしている。
それはあのような態度になっても仕方ない。紀夫の心境を思いやるとむしろ辛くなる。
  
栄輔のことはむしろこれからが問題の本番なんであろう。栄輔にしても同じく、自分が誰かのためになっている、という意識を持ちたい。単にすみれへの恋心だけが問題ではない。栄輔は単にすみれに失恋したのではない。私が以前に書いたけど、さくらに取り入ってすみれの気を引く、というのも作戦なんかじゃなく、彼は心からさくらを可愛いと思い、さくらの父親になりたいと思ったのだろう。自らの家族を失ってしまった栄輔の心境もまた、思いやると辛い。栄輔の傘のエピソードも考えてみれば何重にも表現しているものがある。傘とはなにかを庇護する象徴。そして栄輔に残されているのが実家で作られたその傘1本だけ。

私自身だって同じだからね。今私は、高齢の父親と弟しか直接の家族が居ない。友達はたくさんいても、家族というのとは違う。いまは別に父親に尽くしているわけでもなんでもないが、自分にできる限りのことはしてあげたいと思う。
  
家族関係どころか、仕事においても紀夫は「居場所」を見失った。
自分の居場所に確信が持てなくなったとき、人は何かに「執着」しはじめる
  
最初に思ったよりはるかに奥深いドラマになってきた。それでもペースがゆったりしているので助かる。早すぎると私評が書き切れないしね。
 
posted by おーゆみこ at 08:36| Comment(1) | TrackBack(0) | べっぴんさん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
数年前、広島で友人の学生さん、そのおばあちゃん、おばあちゃんのお兄さんとお話をする機会がありました。そのうち話は戦後の頃のことに…

おばあさんの兄さんは終戦頃ロシアへ行かされ、2年後くらいに日本へ帰ってこられたそうです。それは口にすることも出来なかった日々で、死ねたらどんなに楽かというものだったそうです。威張っていた上官は日本人から大事にされることも無くなり、そのおじいちゃんは人を大事にした分大事に思われたと遠慮がちに語ってらっしゃいました。その後、妹であるおばあちゃんはその話を初めて聞いたと言い、自分も原爆投下の後は(呉にいた)2年間何をどうやって生きていたか覚えてないとおっしゃってました。戦後70年くらい経ってから兄妹でもやっと知った話だったのです。
今日の紀夫くんのお話、それを思い出しながら見ていました。あの時代の戦争に行った人々は同じような思いをしていたのでしょう。
Posted by そらこ at 2016年11月21日 14:29
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