2011年03月28日

【てっぱん】第146話 ショック療法? #nhk #teppan #drama

出産がらみの話になると毎回若干気持ちが複雑になるワタクシではある。

<産気づいたのぞみは、一旦落ち着くと、なんと、大阪に戻ると言い張る。
「これ以上迷惑をかけるわけにはいきませんから…」
欽也には
「結婚のことは、生んでからゆっくり考えさせて欲しいの」

皆は止めようとするが
「大丈夫、この子は私に似て我慢強いはずですから」
それを聞いた錠は血相を変え
「ちょ、ちょっと待て!何言うとるんじゃ、あんた!あんたがどれだけ無理しようがわしはしらん、じゃがの、赤ん坊に無理させてどうするんじゃ!」
のぞみはそれでもまだ大阪に帰らせてくれと言い張るが、一同ほぼ無理矢理にのぞみを産院に連れて行った。

初音はあかりから電話を受け、店のことは心配せずつきそってやれと言う。そばにいた徹が
「尾道の子になるんですね」
「うちの孫と一緒や」
ほほえむ初音。

徹は初音に頼みがあるという。料理を教えてくれということらしい。
徹が初音に教わっているところに民男と笹井がやってくる。のぞみのことが気になって寝られないという。
そして料理を習う徹を見て
「お父ちゃんも弟子入りか?」
民男も初音に味噌汁を習ったと笹井から聞いて微笑む徹。
だが、あかりが一番弟子だ、という話から
「お姉ちゃんが下宿も継ぐんやろな?」
と民男が言うと
「うちは、跡継ぎは取らん主義や」
とちょっと厳しい顔で言う。

いよいよ陣痛が激しくなってきたのぞみ。真知子に言われて欽也もそばに付き添おうとしたが
「出てって…こんなとこ見られたくないし!」
「あ……すまん…」
ためらいつつも部屋から出て行き、ガラス戸越しに心配そうに見つめる欽也。

神田と錠、鉄平は事務所にいる。久太と隆円がやってくる。
「結婚よりお産の方が先になるといろいろ面倒なことになるで」
と隆円。母親の籍に入った子を改めて養子縁組しなければならなくなると言う。千春の時に隆円は調べていたのだ。
「お腹の子には何が一番か考えてやらんとの」

欽也は工場のほうでひとり座り込んでいる。

いよいよのぞみが産院に行くことになり、あかりが欽也に声をかけるが、欽也は家で待っているという。だが真知子が
「あんた、今更逃げるんね? 丸ごと引き受ける覚悟じゃないん?」
すると錠も
「欽也、お母ちゃんの言う通りじゃ。お前がついてやらんでどうするんな?」
あかりも再び促し、欽也は決意した。あかりとともにのぞみを支える。

天神様にお参りしている初音。伝が通りかかり
「呪いでもかけとんのかいな」
「あほか、安産祈願や」
初音は、のぞみが尾道でまもなく産むのだと話す。あかりもつきそっている、と。
「あの子、自分が生まれた日に、立ち会うとるつもりや」

産院。のぞみははげしく苦しんでいる。必死で手を握る欽也。そして励まし続けるあかりと真知子。
そしてついに赤ん坊が生まれた。

産院の廊下で膝をつく神田。じっと立ち尽くす錠。

手を握り続ける欽也、そして愛しそうにのぞみの額を撫でてやる。

助産師が赤子をのぞみに抱かせると、のぞみは声を上げて泣き出す。

少し落ち着き、錠たちも部屋に入ってきた。のぞみはあかりに
「だっこしてみる?」
「うん!」
あかりは赤ん坊を抱き、顔を見つめながら
「まるちゃん…会えたね!…お誕生日、おめでとう!」
と泣きながら声をかける。

明るい光の中、みんな微笑んで赤ん坊を見つめる。
「ありがとう!…まるちゃん」
とあかり。
「…うん…ありがとう!」
のぞみは赤ん坊とあかりを一緒に包み込むように抱きつく。

(小さな…小さな命の、大きな誕生です)>

あたりまえだけれど、出産すること子供を持つことが感動的に描かれる。いや、私も見ていて感動はするけれども、ひるがえって、あ〜、やっぱ(自分が産まなかったのは)「しまった」かのう、と落ち着かない気分になってしまうのだ。でもまあ、それは個人的な述懐。

ツイッター上では(とはいえ実は最近は#teppanタグを追っていないのだが)、欽也という「他人」が分娩室に入って立ち会ったことに抵抗を感じるという意見もある。

考えてみたら、出産もミモフタもなく言えば「排泄」みたいなもんで、むやみに立ち会われるのは、たとえそれが夫であっても、いわばトイレを覗かれるような落ち着かなさがあるのかもしれない。私は経験していないだけに、それこそ男性目線になってしまって、夫婦なら立ち会って経験を共有したほうがいい、私ならそう思う、と思ったが、自分が当事者なら案外違う感覚を持つのかも。

だがこのドラマでは、むしろ、あえてその「抵抗感」を逆手に取ったのかもとも思えてきた。のぞみは全く持って「立ち会われるなんて絶対いや」なタイプだろう。赤ん坊の本当の父親や、正式に結婚した夫であっても嫌なはず。ましてやまだ心を許していない、信頼も仕切れていない「他人」の欽也である。現に、その前の場面で「出てって」と言っている。この場面にも意味を持たせているとしたら、欽也がそれでも立ち会う流れになったのは脚本上の無神経ではなく、むしろ計算だと思う。
つまり、普通以上に頑なにカッコ悪いところをみせたくない、人の助けを借りたくない、というのぞみを、打ち砕くための「ショック療法」である。もういまさらカッコつけようもない。ここまでしなければ、この期に及んでも大阪に帰ると言い張るのぞみを変えることはできなかっただろう。

のぞみに共感する、つまり「人の助けをむやみに借りたくない」タイプの人は、これを見ても自分が変わったりはしないだろうな、とは思うけれど。嫌だ、こんなのとんでもない、お節介すぎる、勘弁して、と思うのではないか。

けれどこれまでも何度も書いてきているように、ときに人の助けを借りる経験をすることで、その人は次には誰かを同じように助けたいと自然に思うだろう。逆に、人の助けはいらない、迷惑をかけたくない、と頑なに思う人は、言葉を返せば「自分は人を助けたくない」「迷惑かけられたくない」、と感じてしまい、だからこそ人がそうすることが信じられない、ということだとも言えてしまう。

さらに言えば、人は、他の人(ないし存在)を助けているときにこそ一番大きな喜びを感じるように出来ているのだ。もちろん、自分が生き延びなければならないような切羽詰まった状況では必ずしも人を優先はせず、自分をまず真っ先に考えるのは当然だと思うが、そこには本当の「喜び」はない。
とすれば、「助けられる」立場の人は、人に喜びを与えている、とさえ言えるのだ。

むやみやたらなお節介をしないで、人の気持ちを尊重する、のはたしかに素晴らしいことだと思う。自己満足のお節介というのも確かに存在するからね。助けてやったつもりになられても、本当は相手を傷つけているということはあると思うから、簡単ではないだろう。けれど、相手の表面的な言葉だけを受け取って言われた通りに引っ込んでいればいい、とも言えない。

とりあえず誰ものぞみに、「説教」などはしてこなかった(きょうの錠ちゃんを除いて)。あんたそんな頑なでどうするの、とか言う人はいなかった。それでも静かに寄り添っていてくれた人々のことを感じてのぞみも少しずつ柔らかくなってきたのだが、それでも根本はなかなか変わらない。
今はみんな、のぞみ自身よりも、のぞみの生き方がこれから投影されてしまうであろう子供のことを心配しているとも言える。
やっぱり頑ななのぞみの殻を、多少乱暴でも打ち砕いてやる必要があったのだと思う。


しかもこのことが「迷惑」として語られるようであってはならない、そうするとあかり自身が、自分の存在が「迷惑だった」と思うことになってしまうから。









posted by おーゆみこ at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | てっぱん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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