長く響く余韻が心にすっと通っていって、たしかになんだか煩悩がほぐされていく気がする。
でも「煩悩ってなに?」のリアクションがまたいい。
それでも結局にっこりして、ありがとう!と帰っていくあの面構え。
いいねえこの娘。
鉄平なりの気の遣い方がまた泣ける。「いちばんパニクってる」彼が考えたのはやはり
「そんなん全然たいしたことない!」
って思いを形にすることだ。あえてDHAと間違えてみせる、ほどには頭よくなさそうだから (^_^;)そこは素ってことだろうけど、「村上あかり」ばかり書いている進路調査票も、その心理を気がつかずに言っているわけでもないと思う。持ち出して、笑い飛ばしてやることでどうにかしよう、と彼は考えた…いや、感じたのだろう、それがいいと。
あかり自身も、サイアク!と叫びながらも、彼らに向かってあたりちらしたりはしない。彼らの挙動不審を見るほどに、むしろ愛されていることが分かる、そういう賢さがあるはずだ。悲劇のヒロインにはならない、と公式サイトなどでも表現されていたが、つまり「被害者意識」という方向にはいかないのだ。そこが素晴らしい。
ばあちゃんが「ベッチャー」であったのはその点むしろあかりにとって幸いだ。ここでばあちゃんのほうが「悲劇のヒロイン」いや、ヒロインではないにしても「悲劇の脇役」になっていたら、あかりのほうでもその怒りの矛先を向けられない。
ばあちゃんがベッチャーだから、
「こんなことになったのもみんなベッチャーのせい!」
と遠慮なく思うことができる(少なくとも現時点では)。
だって何度も言うが「知らぬが仏」だったのだ。肝心な事実はなにも変わっていない。肝心な、というのはここでは、仲良く理解し合った家族の中で、愛されて育ってきたということだ。変わったのは、知ってしまった、ということだけ。事実自体に問題があるのではなく、知らされたことが問題なので、ここは別チャーこそ元凶!で正解なのである。
だが欽也はそういえば言っていたな、何も知らないお前が羨ましかった、と。
それだけ人間てのは厄介だということだ。概念にとらわれてしまう。
だがそれこそ、意志の力で、克服できる。なにが大事なのかをきちんと見極めようという意志だ。
意志といっても、「論理」「思考」だけではない。直観で本質を見ることだってできる。話は飛ぶようだが、宗教というものの本来の本質的な役割はそれなんだと私は信じている。祈りや修行や瞑想などは、煩悩だらけの心の中にともすれば隠れてしまいがちな、「本質的に大事なこと」を感得すべく、心を整理して落ちつかせる手段だと思っている(ところが当の宗教界自体が本質を見られずにガタガタしまくっている皮肉)。
横山住職は(苦し紛れかもしれないが)「(鐘を)撞け!」と言うことで、あかりがそれをするのを助けた。変に言葉で諭すより…というより、外側から何を言ってもしかたがない、自分なりの答えを自分で見つけなければいけないのだ、なににつけ。
とりあえず誰も、私がここでぐったらぐったら書いているようなことを言葉で言ってあかりをなぐさめたりしないのも好感。表面的でないところで、ドラマが展開する。
やっぱり好きだ、これ。
これ好きだ!と感じている人が、少なくとも私が接する範囲ではけっこういるようなのも嬉しい。多数派になりたくない(てことを別ブログにも書いたのでお暇な人読んで見てください)私だが、少数派(?)の仲間がいるのはもっと嬉しいことである。
2回で出生の秘密がバレたときは「早っ!」と思ったのですが、最初は実感がなかったのが、だんだん大きい事実としてあかりにのしかかっていく様子をうまく描いているなーと思いました。あと、私も元ブラバンですが、その要素も記号にせずにうまく取り込んでいるなあと感じます。
これがブレずに最後までいってくれればと思わずにいられません。
まあ今回はメイン以外に2人脚本協力がついているので、そのあたりも期待しています。
あと、ここの常連の方々が「ゲゲゲ」の家族観に違和感を感じておられたとおっしゃってましたが、田舎出身の私の実感からすると、ああいう保守的な考えというのは決して過去のものではなく、今も年配の方々を中心に根強く残っているものなんですよね。
私自身ああいう考え方は嫌いですが、実際にそれをすり込まれて育ってきた年配の女性は、今の私たちにはない、驚異的な耐える力を持っていると感じることが多々あります。それがいいか悪いかはともかく、そういうバックグラウンドがあったからこそ、あそこまで布美枝が茂の支えとなりえたのだとも思うのです。
だから脚本家の方も、そのあたりを今の時代にウケがいいように変えたりせず、あえてああいう家族像を描いたのではないかと、個人的には受け止めています。いわゆる朝ドラとしての理想の家族を描くのではなく、いいことも悪いこともありのままに描くというか。
「ゲゲゲ」の茂一家が世間的にどう受け止められたか本当のところは分かりませんが、布美枝のモデルの武良布枝さんが、ご主人のどこが好きか聞かれて「好きとか嫌いとかではなく、全てを受け入れている」とおっしゃっていたのが、この人には(出発点はそういだったかもしれないけど)保守的であるとかないとかはもう関係ないんだな、凄いなあと思いました。
だからこそ、布美枝が家庭で何もしていないではないかという声は、おかしいのではないかと常々思っていました。価値観がせめぎ合う、大家族のきりもりはそりゃあ大変なはず。個々のアイデンティティーに関わりますから。普通という言葉を警戒する自分のような人間と保守的な人との溝は深く、克服は大変です。そんなせめぎあいも書いてほしかった。布枝さんご自身の深さはそんな葛藤も乗り越えてのもので、布美枝はそこまで描かれてなかったように思います。
今日の放送、自然と涙がにじみました。それぞれの兄の思い、父の戸惑いと愛、母の静かな見守り、とても心にしみます。それぞれの人生に思わず思いをはせてしまう。これって嬉しいことです。
別ブログ読みました。「自分で考えてないんじゃないの」っていう感覚、よくわかります。宗教も、自分をも含め、深く知っていくためにある側面もあるのに、自分で考えない、ひとつの価値観を疑わない方向に行くのが残念。世界各地の紛争にまで発展して。一方で、自分で考えない、目の前の既存の価値観を絶対的に受け入れるがゆえに生まれる驚異的な強さというしまじろうさんの指摘、とても考えさせられます。自分の理屈が自分の許容範囲を狭めることもよくあることですから。うーん。難しいけど、考えるのも楽しいかな。
『ゲゲゲ』の後にスポットで入った『てっぱん』のハイテンションな感じと番宣でマイナスイメージがありました。番宣マイナスポイントはトランペットを海にドボンとベッチャーが投げたトランペットがあかりのものだとばかり思い込んでいた点です。
初回を見て、トランペットを海にドボン(しかも2回も(^^;))は嫌悪でした。ですが、ベッチャーがあかりのトランペットを投げながら、あのセリフを言ったわけではなかったのは良かったです。
ずっと、ドラマはハイテンションモードで突っ走るのかと思っていたら、抑えるシーンはかなり抑えた感じなのも良い感じです。ドラマにメリハリがありますね。困惑と冷静さの塩梅がいいです。
海にドボンしたままだとトランペットがパーになるだろうなと思って見ていたので、あかりが分解をしてメンテナンスをきちんとしていたシーンがあって、安心しました。こういうちょっとしたシーンがあるのと無いのでドラマの質が変わってきます。
あかりの中の人の演技もキンキン一辺倒ではなく、抑えた演技ができ、切れ味がありますね。住職との兼ね合いの間というかリズムがいい感じでした。
ありがとうございます。(おーゆみこさんのところは、これがいいんですよねぇ...)
朝一番で見た限りでは、鉄平の「彼なりの行動」、おーゆみこさんのコメントほどまでは思い至れませんでした。なるほど...。
家族のそれぞれにも心を寄せつつ、今日の回、隆円さんのなまぐさ坊主振り〜「苦し紛れかもしれないが」という雰囲気ながら、でも、もっともらしい言葉で説得したりはせずに、あかりをしゃんと(自分で)振り向かせる〜が心地よかったです。
ところで、件の楽器、美織さんのトランペットの師匠の私物なんだそうで、となればなおさら、あだやおろそかには扱えないだろうな(^_^;と、やまさきしょうこさん(お師匠さん)のtweetを拝見して思ったりしていました。