2012年03月30日

第150回 愛のエネルギーこそが存在

最終回を一つ残し糸子死す。
いきなりそうくるんか!と一瞬驚いたけれど、このドラマのコンセプトからしたら当然だと思い直した。

つまり今週のサブタイにもある「あなたの愛は生きています」だ。白のカーネーションの花言葉だそうな。

子供に対する母の愛、が最前面に出されてはいるが、もちろんそれだけではない。
糸子自身も、亡くなってしまった愛する人々、千代さん善ちゃんだけではもちろんなく、勝さんも泰蔵兄ちゃんも勘助も、玉枝おばちゃんも、そして北村も…そういう人々たちの「生きている愛」の中にずっといた。亡くなっても人の心の中に生きる、という言葉は手垢がついた陳腐な響きもあるが、でもそれは真実だ。

人間はその人の肉体的存在が全てなのではない。というよりそれは寧ろ、ヘンな譬えだが「神社」みたいなもの。単なる(?)依り代。
人間の本質は、これはこれまでも他のドラマの私評でも何度も何度も書いたが、生物学的存在の「人=ヒト」ではなく、その「間」にこそある。
相互作用。つまり、自分が発して、だれかが(直接的にせよ間接的にせよ)受け取るエネルギー、そのやりとりこそがその本質なのだ。それを「愛」と呼ぶ。愛はエネルギー。自分の中でも循環するが、外に出せば世界の中で循環する。そのエネルギーはいわば「不滅」だ。死なない。

エネルギーを放出すればするほど、その人の「生」は豊かになっていく。その人の存在は大きくなっていく。「人のためを考えて何かをする」というのはそういう愛のエネルギーを放出するということだ。それを受け取った人の中でエネルギーは不滅に生き続ける。つまり自分がどんどん拡大する。人のために何かをするというのは決して「自己犠牲」なんかではない。むしろ自分をより生かす術なのである。
でももちろん、「自分のために」なにかをすることが悪いわけではない。放出するためのエネルギーを確保するには必要だ。自分が楽しい、好きだ、ワクワクする!と思えば思うほどエネルギーは活性化する。そういうエネルギーは意図しなくなって外にあふれ出す。

「人のために」なにかやっているつもりでも、自分の中に自己犠牲のような意識があったり不機嫌だったりしたら、エネルギーは削がれてしまう。マイナスのエネルギーというものもある。
マイナス、あるいはネガティブなエネルギーを放出したら(たとえば人を中傷するとか)そのエネルギー循環に取り込まれるよね。そういう人もたまに見かける。気の毒にと思う。

そういや今朝ヘンな夢みたな。なんかアバズレっぽい若い女の子に絡まれて、身の危険さえ感じる状況になった。私もその娘に対して非難の言葉を投げつけていた。でもふと、その彼女の脚がとてもスラリと美しいことに気がつき、思わず(別に場を収めようとかの意図もなく、つい)「あらあなた脚がとってもきれいねえ!」と感嘆の言葉を発したら、その娘が突然攻撃態勢を緩めた…てな夢。なんか実際にもありそうな夢だな。

エネルギーを放出するのは「自分」だから、逆説的だが、相手は関係ない。自分一人でできることだ。人間関係に恵まれていないと感じている人にだってできる。相手が「与えてくれる」のを待っていてはだめだ。待つ必要はないし。自分が出せば良いだけである。エネルギーというのは不思議なもので、出せば出すほどまた湧いてくる。そして人に到達したら、自分にも返ってくる。必ずしもその人から返ってくるわけではない。エネルギーは何しろ「循環」だから、どこか他から回ってくる。だから相手が返してくれるとかくれないとか気にしないで出し続ける。「与える」というより、単に「出す」。

糸子はそうだったと思う。「与える」なんておこがましいことは考えてなかった。ただ、出した。自分がしたい、という動機。それでエネルギー放出しまくり。だからその循環が大きな大きな大きな流れになって、沢山の人を巻き込んだ。その全ての人の中に糸子は生きている。
病気から一度生還したあとに、世界がやたら「きれえに見えた」というのは、よくある、「有り難みを感じた」というだけのことではなく、自分が源となったエネルギーの循環が見えるようになったということなんだろう。「自分の存在」が世界に充ち満ちている。それが分かった。この「依り代」たる自分の肉体が滅びても、それはなくならない。

糸子は、つまり小篠綾子さんは、生来そのエネルギーが大きい人だったからその循環も大きくなったのだろうが、だれだってエネルギーを出すことはできる。「人のために」なにかをしてあげなきゃ、と力む必要も実はない。お金やものを提供しなきゃいけないということでもない。ボランティアで働かなきゃいけない、ってことでもない。自分がワクワクしているだけだっていいのだ。ワクワクしていたらそのワクワクを隠さずに、笑顔を見せれば良いだけだ。とりあえずそれだってエネルギーの放出。

たとえば、今週あさイチがない(あるいは録画放送になってる)ってだけでツイッターのTL上に嘆きが多々見られる。
「いのっちたちと感動を分かち合えないなんて!」
私もそう思うが、つまりそれは、いのっちたちは番組を見て感動して涙目になる、それを視聴者に隠さず伝える、それだけで「エネルギーを出し」、人々はそれを受け取って少し幸せになれたのだ。

余談だが、最近ひとつ懺悔したいことが。
ジムに行くとき急いでいて、エレベータに乗ろうとしたら、中学生か高校生ぐらいの小柄な男の子が、なにやらゴミを足で外に押し出そうとしていた。そして
「マナーが悪いなあ」
とつぶやいた。私は、彼がまだなにかしているのに急いで乗り込んでしまった私のことを言っているのかと思い、かつそのゴミは自分で捨てたのだと思い
ついつい
「自分でしょ」
とつぶやいてしまった。すると彼は気色ばみ、
「あんだと!気分わりいなあ、このババア! ジムに行くのかよ、無駄だよその体形で!」
とか罵詈雑言。私は急いでいたので相手にせずそのままエレベーターの扉を閉めて去ってしまったが、しばらくむかついていた。だがよくよく考えると、彼は誰か他の人が捨てたゴミを外に出そうとしてくれていたのだと思えてきた。それで、これは自分のゴミじゃないぞというアピールで「マナーが悪いな」とつぶやいたのであろう。なのに私が酷いことを言ってしまった。
それからずっとそのことが気にかかって仕方がない。心の中でずっと謝っている。ごめんね。この誤解を解きたい。ツイッターででも書いたらもしかして届くかしらん?

この余談は、もちろん、マイナスエネルギーを放出するとその結果はやっぱりマイナスが返ってくること、の例として書いたのであるが。

さて余談はともかく、明日の最終回は、愛のエネルギーとして存在し続ける糸子の姿を感じることになるのだろうと確信。例によって土曜日で朝から仕事、化粧のタイミングも難しいが、明日は涙はないかもしれない。私評は明日明後日はたぶん書く時間ない。でも近いうち書きます。

P.S.ツイッターでも書いたけど、この86歳もまじ「奇跡」! またアコガレの対象ができてしまった。もっとも私には80代でバタフライの方がまだ実現可能性はあるけど。
posted by おーゆみこ at 13:15| Comment(1) | TrackBack(0) | カーネーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月27日

第147話 支えに気づき豊かな人間関係を

いいなあ、サロン。人が気軽に集まってこれるようなオープンな家というのは夢。
私には今はそんなん芽もないけど、ほんとに望む夢ならきっといつのまにかそっち方向に行くに違いない。言霊作っとこ!

母親を亡くしたときより遙かにこたえた譲の父親の死。「いよいよ自分の力だけで背負わなければならなくなったことがこたえている」と糸子。
それはつくづく思うな。父であるか母であるかという問題ではなく、また養う会社や家族があるかないかということでもなく、自分が世代の先頭になってしまったということ。もう誰かの「子供」じゃなくなってしまった。その心細さ。

だがそれはだれでもが通る道。
同じ気持ちを味わった「同志」はたくさんいる。そして
群れたり慰め合うたりしているうちに弱い人間でもなんとかやっていくもんや。
…そうだよね。
悲しいことに出会わない人間なんていない。
悲しいとき、人はたいがい、「自分は弱い」と思う。強い人なら悲しまないだろうと。
でも実際、哀しみを感じない強い人なんていないんだよね。人間はみな、弱くて、そして強い。
一人で立っているように見える「強い」人も、きっと誰かや何かの存在に支えられている。それに気づいている人が実は本当に「強い」のかも。自分の弱さを認められるのが本当の強さ、とかそういえばよく聞くね。
自分一人で立っているつもりになっている、立っていなきゃいけない、と思っている人は、実は自分がボロボロになっていてもそれを認めないから、どこかで一気に崩れてしまうかもしれない。

糸子は傍目に「強い」人間だったが、常に誰かに助けられていて、そのことにちゃんと気づいている。たとえばそれは奈津だったかもしれない。結婚式なのに歩けなくなってしまった糸子を背負って式場に連れて行き、自分の衣装まで着せてやる。豚とか罵りながらも。奈津も糸子も互いに助けられて、そういうとき互いにデレデレと礼を言い合ったりしないが、それでもきっと深く感謝している。そういう支えだって良いのだ。戦友のような存在。

人は一人では生きられない。

「キラキラをはがされて、むきだしになってしまった四十男の本性は、あんたが思ってるよりよっぽどキレエなんやで」

よれよれになって、突っ張りきれなくなって、そして支えられていることに気づく。
それが幸せなんだと思う。

なにか大層なことを成し遂げたから満足な人生、なのではなく、なにか一生懸命やろうとして、だからこそ傷ついたり沈んだりし、だからこそ周囲の人々の支えに気づき、自分も他の人の支えになろうとし、そうやって豊かな人間関係が築かれていく…のが幸せな人生なのだと思う。
人は不死身ではないから、家族や親しい人たちも亡くなってしまうこともある。それでもそれは失われたのではない。人間関係というのは実はその人の物理的存在ではなく、自分とその人の間の相互の「交流」という目に見えないものが本質で、すべて「自分の所にある」ものなので、自分が愛し関心を持ち感謝している限りそれはなくならない。
糸子の周りにはまだお父ちゃんもお母ちゃんも泰蔵兄ちゃんも勝さんも北村さんもいるのである。
posted by おーゆみこ at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | カーネーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月26日

第146話 断捨離

かつて里香に、辛かったらそう言えと涙ながらに諭していたとき、もしかしたら奈津のことを思い浮かべていたのかもしれないな。

桜井さんの依頼で糸子の作ったウエディングドレスも、それを受け取って感激する奈津を見たかったと思ったけど、考えてみたら奈津は糸子が面と向かって渡したら受け取りにくかったかもね(とはいえ桜井さんからのプレゼントだから拒絶はできないし)。奈津はあくまで滅多なことではデレないのだ。それでもイケメン(&いい加減)な院長先生が絡んでるというのはいい感じ。奈津を呼び止めて糸子に知らせたのも院長だし、グッジョブ。辰巳琢朗は私の元夫に似てるな。元夫もイケメンだったのよね。私も奈津といっしょで面食いにゃのだ。…んなことはどうでもよろしい。

人のためにやったことが成功し、自分だけの欲をかくと失敗した、という話。
「与うるは受くるより幸いなり、ですか」
「それですわ!あげんのはもらうよりずっと得や」
共感する。だが、それだけだったらキレイゴトすぎる。
それは、人一倍欲深いからこそ、と言う、そこにさらなる共感。おかげで散々痛い目にあったから、と言うが、実際になにか失敗したとかそういうだけではなく、常に自分の欲のために心が平安にならないのが辛いのである。
何かが欲しい、でも得られない、という心の乱れに加え、こんな欲深い自分、いったい自分は本当は何がしたいんだ、何のために生まれてきたんだ、自分の使命ってのがあるんじゃないのか。なのに自分の欲にとらわれてて、こんなことでいいのか…のような葛藤による乱れ。

歳を取ってくると更に、来し方を振り返り、自分が今までいったい何をしてきたんだろうという自問が出てくる。なにもしてこなかったという無力感だったり、逆に、それなりのことはしてきた自負はある、しかしそれがいったい何なのだ?という根本的な疑問、ある種の空しさ。先が短いのに…という焦り。

だが糸子はそういうことを通り過ぎて、90歳となり、やっと、「今ここ」的な境地に達したのだろうか。昔のものを惜しげもなく捨て、思い出なんかどうでもええわ、と言い切る。普通は歳を取ると「思い出に生きる」ようになってしまうのではと思えるが、それらを捨てて、「いまここ」のみに生き、かつ、長くはないはずの「これから」をワクワク楽しみにする糸子はやっぱりただものではない。
ただものではないが、化け物ではないし神様でもない生身の人間だ。
これは誰でもが持つ「老いへの恐怖」へのひとつの答えで、たぶん、私にもあなたにもできることなのだ、このような90歳であること。いや、歳自体はともかく、このような晩年であること。

断捨離という言葉が流行ったが、それはただ単に収納術とか整理術とかの範疇だけではない。人生論でもある。「いまここ」に必要でないものを持たないこと。それによって「いまここ」に集中できるようにする。思い出などは邪魔になる。思い出の品、とかが邪魔なのは言うまでもないが、心の中の思い出ですら、「必要最低限」でいい。全部なくすとは言わない。ものと同じで、いまここを生きるのに必要な分だけでいいのだ。
自分が何を為してきたのか、とかそういうことも同じである。それらは、今やりたいことに活かせる分だけを活かせばいい。もちろん、たとえば過去の名声とか地位とかが活きる場合だってあるので、それを活かせばいいが、関係ない部分はさっさと捨ててしまっていい。

過去の人間関係も、確かに今に活きる。培ってきた人の輪がありがたい、と糸子は言う。そしてまた、毎朝仏壇に手を合わせて「今日もよろしく」と挨拶する。つまり、それらは糸子にとって実は「過去」ではない。亡くなった人々も、陳腐な言い方だが心の中に今も現役で生き続け、守ってくれる。
けれど過度な感傷とか後悔とか、あるいはもはや現在とは関係のない「浸る」ための思い出になら、そんなものは必要ない。

ものも人も、心も、上手に断捨離すればいいのだ。それこそが幸せに老いる秘訣かもしれない。どんどん身軽になる。ただでさえ弱ってしまう身体にたくさんのものを抱えてしまっては重荷になって身動きできなくなるだけだ。身軽になれば元気になれる。

「欲」ということに戻れば、欲はどしどし持っても、それを「抱え込む」ことをしなければいいのだ。何かを「人のために」するのがいいのは、その結果を自分が引き受けて抱え込まなくていいからでもあろう。自分からどんどん出していってしまう。いい気持ちだけが残る。
自分のためにと欲かいてすることがあっても、執着しなければいい。叶えば喜び、叶わなくても、まあいつか良いようになると構える。
糸子は自分の人生を朝ドラにしてほしい、とか、うなぎはまだか、とか、ヘレカツ食いたい、とか欲まみれ(?笑)で、しかもせっかちだししつこいし、いかにも「執着」しているようだが、それはほんとうには執着ではない。少なくともウェットではない。「したいしたい〜〜」とどんどん外に出して発散して、とりあえずそれでカラリとしているのだ。

欲は持っても執着は捨てる。

もっと言えば、「いまここ」に必要なものに対しては貪欲になり、そうでないものはサラリと捨てる。

そういう態度が幸せな老い…いや、老いなくても良い、どんな人にとっても幸せの秘訣だろう。ただそれまで翻弄されてきたからこそたどり着く境地でもあるかもしれない。
私自身もわずかながらにはそういう境地に近づいてきたような気もする今日この頃。

あ〜、あと、やっぱり「食べる」は大事だよな〜。糸子のエネルギーは「よく食うこと」から生まれてる。私自身も、元気になるのと食べる事への関心とは比例。今めちゃめちゃなんでも美味しくて、食べることが幸せで、そして精神的にも元気!
90越えてもうなぎやヘレカツワシワシ食いたいのう。



posted by おーゆみこ at 14:18| Comment(0) | TrackBack(0) | カーネーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする