2010年09月30日

第4話 何が本当に大事なのか直観する #teppan #nhk #drama

鐘の音はいいね。
長く響く余韻が心にすっと通っていって、たしかになんだか煩悩がほぐされていく気がする。

でも「煩悩ってなに?」のリアクションがまたいい。
それでも結局にっこりして、ありがとう!と帰っていくあの面構え。
いいねえこの娘。

鉄平なりの気の遣い方がまた泣ける。「いちばんパニクってる」彼が考えたのはやはり
「そんなん全然たいしたことない!」
って思いを形にすることだ。あえてDHAと間違えてみせる、ほどには頭よくなさそうだから (^_^;)そこは素ってことだろうけど、「村上あかり」ばかり書いている進路調査票も、その心理を気がつかずに言っているわけでもないと思う。持ち出して、笑い飛ばしてやることでどうにかしよう、と彼は考えた…いや、感じたのだろう、それがいいと。

あかり自身も、サイアク!と叫びながらも、彼らに向かってあたりちらしたりはしない。彼らの挙動不審を見るほどに、むしろ愛されていることが分かる、そういう賢さがあるはずだ。悲劇のヒロインにはならない、と公式サイトなどでも表現されていたが、つまり「被害者意識」という方向にはいかないのだ。そこが素晴らしい。

ばあちゃんが「ベッチャー」であったのはその点むしろあかりにとって幸いだ。ここでばあちゃんのほうが「悲劇のヒロイン」いや、ヒロインではないにしても「悲劇の脇役」になっていたら、あかりのほうでもその怒りの矛先を向けられない。
ばあちゃんがベッチャーだから、
「こんなことになったのもみんなベッチャーのせい!」
と遠慮なく思うことができる(少なくとも現時点では)。

だって何度も言うが「知らぬが仏」だったのだ。肝心な事実はなにも変わっていない。肝心な、というのはここでは、仲良く理解し合った家族の中で、愛されて育ってきたということだ。変わったのは、知ってしまった、ということだけ。事実自体に問題があるのではなく、知らされたことが問題なので、ここは別チャーこそ元凶!で正解なのである。

だが欽也はそういえば言っていたな、何も知らないお前が羨ましかった、と。
それだけ人間てのは厄介だということだ。概念にとらわれてしまう。
だがそれこそ、意志の力で、克服できる。なにが大事なのかをきちんと見極めようという意志だ。
意志といっても、「論理」「思考」だけではない。直観で本質を見ることだってできる。話は飛ぶようだが、宗教というものの本来の本質的な役割はそれなんだと私は信じている。祈りや修行や瞑想などは、煩悩だらけの心の中にともすれば隠れてしまいがちな、「本質的に大事なこと」を感得すべく、心を整理して落ちつかせる手段だと思っている(ところが当の宗教界自体が本質を見られずにガタガタしまくっている皮肉)。
横山住職は(苦し紛れかもしれないが)「(鐘を)撞け!」と言うことで、あかりがそれをするのを助けた。変に言葉で諭すより…というより、外側から何を言ってもしかたがない、自分なりの答えを自分で見つけなければいけないのだ、なににつけ。

とりあえず誰も、私がここでぐったらぐったら書いているようなことを言葉で言ってあかりをなぐさめたりしないのも好感。表面的でないところで、ドラマが展開する。
やっぱり好きだ、これ。

これ好きだ!と感じている人が、少なくとも私が接する範囲ではけっこういるようなのも嬉しい。多数派になりたくない(てことを別ブログにも書いたのでお暇な人読んで見てください)私だが、少数派(?)の仲間がいるのはもっと嬉しいことである。



posted by おーゆみこ at 14:53| Comment(6) | TrackBack(0) | てっぱん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月29日

第3話 「ザラっとしてて」かなり好きかも

これ、かなり好きかも、とやはり思う。

いくら、「本質的にたいしたことない」といっても、動揺はする。しかしそれを意志の力で抑えていく描写が、力みすぎていなくて心地よい。周囲の気の遣い方も、シリアスになりすぎず、かつなおざりにもしていない感じでほどよい。
そうはいっても辛いはずだ…かわいそうに…というような描写のしかたでもなく、あかりは必死で耐えていた、でもなく。
だからといって「全然へっちゃら!」でももちろんなく。

感情的に動揺するのはあたりまえ。けれど、人間としての、意志の力で、よりシアワセであるべく、反応を選び取る。我慢、とは全く違う。無理矢理に感情を抑え込む、のとも違う。もっとアグレッシブで果敢な挑戦。

私が以前からバイブルのように思っている「幸福学のすすめ」という本があり、その本の著者はその考え方を推し進めるべく、Option Institute「選択協会」という団体を設立して活動している。なぜ「選択」なのかというと、「幸せであることを自ら選択する」というのが根本のポリシーだからである。
つまり、外的条件によらず幸せであるためには、自分自身がそう「意志」し、「選択」しなければならない。悲しみや辛さなどの「感情」をコントロールすることはもちろん易しくないが、それでも、それに流されたり浸されたりしたままでいない。幸せは心が決めるもの。自分が幸せであれるための考え方を、自分で選択する。

今までなんの疑いも持たず、血の繋がった親子だと思っていたのが、そうでなかった。それは衝撃である。いやしかし、「血の繋がった親子だと思っていた」と書いたが、血が繋がった云々など、意識したこともなかっただろう。そんなことは意識しなくてすんでいたのである。ならばこれからだって意識しなくたっていい。なんの問題もなく深く理解し合った親子きょうだいであってきたのだ。なんの違いがあろう。
とんでもない「ベッチャー」ばあちゃんが「突然出現」したほうがよほど「問題」だ。それまでになかった要素なのだから。

世間的に考えたらそれこそものすごい重大で「かわいそうな」問題をこのように扱う、という点で、私はかなりこのドラマに引き込まれた。主人公の女の子も、演技のことは私にはよく分からないが、たぶん脚本家や演出家が意図しているであろう世界観を、過不足なく体現しているように思える。地味目な長兄も、単純な次兄も、「長男は金が欠ける也で次男は金を失う…あとになって気づいたんですが」とか動揺の余り語り出してしまう父親も、私はすでに愛している。もちろん母親は言わずもがな。てか安田成美いいじゃん!

しかし危惧したように、すでに、ゲゲゲファンだった層の一部はこのドラマから離れて行っているようだ。この3回分の描写ですでに「引いて」いるらしい。そして、比較してゲゲゲの脚本の良さが際立つ、とか思っているようだ。
その感覚を否定はしないが、私は全くそうではない。それどころか逆に、いやもちろんゲゲゲは好きだったが、やはり私にとってゲゲゲはほんの少し物足りなかったんだな、と今更自覚する。

ゲゲゲはやはり、「まとめ」で書いたこととまた少し矛盾するかもしれないが、「普通」の世界「寄り」であったのだ。制作側の本当の意図は分からないが、やはり多くの人は「普通がいいよね」と思ったのではないか。もちろん妖怪の世界など、水木しげるさん自身はいわゆる「普通」には抵抗さえしている人だと思うが、ドラマの全体のトーンは布美枝さん寄りだった(あたりまえ)だからね。
普通がいいよね、という感覚にも反対はしない。それがつまり、なにか大きなことを成し遂げたりするんじゃなくてもね、ささやかでもね、という意味であるなら大賛成だが、「まとめ」で書いたように、それは容易に、「普通じゃない」には眉をひそめる(もちろん、普通以上に優れている、ならそうではないだろうが)傾向に繋がる。眉をひそめないにしても、過度に気の毒がってみたり、「自分はそうでなくてよかった」と考えることで間接的に貶めていたり。

ゲゲゲを好きな人がみなそうだというつもりではもちろんない。私も好きだったしね。でも、結局の所、ここのところの朝ドラの視聴率は15%〜17%で、そこから「ゲゲゲ」のために増えた層、というのはおそらくどちらかといえば保守的な層なんだろうなと思う。
まあ朝ドラはむしろ「そうあるべき」なのかもしれないが。
ただ私としてはむしろ、朝ドラこそ、それこそ「ザラっと」したのをやってほしいと思ったりするのだ。保守的傾向の多くの人が「なんだこれ」と思うようなものでも、その中のごくごくわずかな人でも「そうか…そうかもしれないな」と思ってくれたりするといいのでは、とか(何様、ですが)。
ゲゲゲは、前半の貧乏時代はともかく、後半は特に「ざらっと」してなかったからね、少なくとも私には。
サンバで忙しい、PCが壊れた云々と言い訳しながら、あまり私評を書かなかったのは、やっぱりどこか完全にはノリ切れてなかったのだと今更ながらに思う。このサイトのコメント欄が低調だったのも、サイトを変えたせいもあったかもしれないが(それにもちろんエントリ自身が少ないので仕方ないが)、私のサイトの常連さんはけっこう私と似たような感覚の方がやはり多いので、「悪くない、好きだ、ほのぼのする、考えさせられるところもある」とは思いつつ、「でも何か書きたい衝動に駆られるほどではない」だったのかもしれないですね。
posted by おーゆみこ at 14:07| Comment(6) | TrackBack(0) | てっぱん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月28日

第2話 「健康」な家族 #teppan #nhk #drama

この演出はかなり好きだった。
あの写真だけで、「この家の子じゃない?」といきなり分かるってのには、違和感がなくもないが。これまで何か疑うようなことがあったというならともかく、そんなことミジンも思わなかっただろうしね。
でも写真の日付と自分の誕生日、妊娠しているのがどちらかというのは写真から明らかで、冷静に考えられるならたしかに、一気に結びついてしまうことではある。ヒロインあかりを含め、この一家は精神的に「きわめて健康」であるから、ここまで唐突な驚くべきことであっても、一瞬のうちに真実を見抜き、そして考え得る限りのもっとも適切なリアクションをするのだ、と感じた。

一番大きなショックであるはずのあかり自身が、ある意味でショックが大きすぎて現実味がないのかもしれないが、ともあれミモフタもなく取り乱したりはせず…いや、取り乱したかもしれないがくずおれたりはせず、言われた通り布団を運んで敷いてやったりしている。
長兄欽也は欽也で、なんとか自分のできる範囲で場を取り繕おうと気を遣うのが、この場合決して嫌みじゃない。その取り繕いももはや効力がないと悟って制する錠、なにはともあれ初音を留めようとする真知子、彼らもそれぞれが「健康」だという印象だ。
もちろん、あかりを思いやってあかり以上にショックを受ける鉄平もまた健康だ。だが彼が「あかりがかわいそうだ」と言っても「なにがかわいそうだ」と反論し、私が育てた子だから大丈夫、と断言する真知子はすばらしい。
そうそう、ここで、「いままで心配してた通り」鉄平が一番パニクっとると言う欽也も、さりげないが良かった。このきょうだいたちがいかに互いを良く分かりあっているかということだ。

きょうの演出の素晴らしいところは、この全体から、
「血が繋がってない親子だからって、それが何?」
という意識が伝わってくるところだ。それをうわっつらの言葉で言うのじゃなく、ドラマの成り行きや演出で示している。そんなん、たいしたことじゃないんだ。

実際、「たいしたことない」はずなのだ。
そもそも、何が変わるというのだ? それこそ「知らぬが仏」で、これまで普通に暮らしてきたことが、「知ってしまった」だけで変わるというほうがおかしいのだ。血のつながりは重要かもしれないし、「生物としての」人間は、ことによったら本能的に、血のつながりのあるなしで何か決定的な違いを感じ取るのかもしれない。だが、人間にはそれ以上に大切なことがある。「心で繋がる」ことこそが、血のつながりなんぞよりはるかに重要なことだと思う。
「血のつながりが重要」
とか
「実の親じゃないなんてかわいそう」
なんて「考え」も、ある意味では人間ならではのものであるが、人間はつまりそういうところを、心や頭で考えて判断して、それこそ「幸」「不幸」を決めるわけである。
それを自分で取捨選択できるのが人間の素晴らしいところだ。出生のヒミツ、なんていう「運命」にいちいち煩わされる必要は、ない、そんなことを選ばなくていいのである。

なんとなく決まり悪げに、ぽんと自分の胸を叩いて
「田中…初音!…67!」
と自己紹介(?)する初音ばあちゃんの、不器用さが可愛い。
おばあちゃんとかおじいちゃんとかいうのはたいがいの場合朝ドラでは、人生を達観した老賢人という立場だと思うが、そうでないのもいい。

あほったれ!と叩きながらトランペットケースを抱きしめて、幼子を揺するように体を揺らす初音にぐっとくる。
おそらくはあかりの母親の千春が家出したとき、あかりとさして変わらぬ年格好だったのだろう。母親を知らぬままに母親と同じトランペットを愛する少女に育ったあかりを見ることになる初音の心の描写が今後興味深い。
posted by おーゆみこ at 12:30| Comment(8) | TrackBack(0) | てっぱん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする