2010年08月24日

第128話 男の子はいつまでもオトコノコ? #gegege #nhk #drama

きょうは時間がないので「あらすじ抜き」で。m(__)m いつも、あらすじ書いてからと思うと全然書けなくなってしまうので…。自分的な根本に立ち戻り、まず感じたことを先に書く。
***
ははは。茂さんカワイイじゃないの。

まあ単純に、この手の人は「気づかない」ってのはあるね。
ものごとはいつも裏表あって、長所もひっくり返せば短所、その逆もまた真。
茂さんはくよくよしない、省エネ型であるという長所を持っているけれど、だからこそ人の複雑な心理に気づきにくい。
私の周りにもいるなあそういう人。
彼らにとっては他の多くの人は、「どうでもいいことでくよくよする」ように見えてしまうのだろうけれど…そしてまあ多くの場合は、彼らは人に多少文句を言われたり悪く思われたりしても、面倒くさいと思いこそすれ、傷ついたりはしないのでそのまま行ってしまうわけだが。
でもそこはやっぱり家族だし、なんのかんのいって最愛の伴侶であれば、自分にはいまひとつ分からない複雑な感情であってもそれを尊重しないわけにはいかない。
そういや私の身近にいる「そういう人」のうちひとりも、奥さんにはもはや愛想を尽かされているらしいし。

話はちょっとズレるが、わがサンバチームには最近は家族連れが多く、小さい子供もたくさんいる。両親が練習に参加するときは子供がついてきて、子供同士(+子供好きな大人)でけっこう楽しく遊んでいる。このあいだ、5歳ぐらいの、とくべつにやんちゃな男の子が大人の女性に相手してもらってチャンバラごっごみたいのをしているのを見て、彼より少し小さい男の子を持つ母親が、彼がいつもうちの息子の先を行っていて、だいたい似たようなタイプなので、ああ、もう少ししたらこういう感じになるのかな、と思う、と言った。そして、
「男の子を持つと、ああ、男の人ってのは結局ずっとこんななんだなと思う」
とも。「こんな」というのは、つまり「単純で子供っぽい」のである。女の子の方がずっと大人というか、「複雑な感情を持っている」。
ご主人に対してもその振る舞いにときにイライラしたりむかっとしたりすることがあったが、息子を見て、ようするにこれと結局同じなんだと思ったらなんだかあまり腹が立たなくなってきた、と言う。

まあ一般論ではあるし、そうでない男、そうでない女、もたくさんいるとは思うが、傾向としては言えるなと思う。
とくに子供時代伸び伸びとやんちゃで、環境的にもそれを許されていた男の子は大人になっても、いや、正確に言えば「年齢を重ねても」、精神構造が子供のままであるように思う。いや、それが「悪い」と言ったりケナしたりバカにしたりしたいのではない。
これも一般論だが、子供はあまりくよくよと思い煩わない…精神的に健康であれば、の話かもしれないが。
茂さんがいつも前向きでくよくよしないのは、精神が子供のまま…と言って悪ければ、「若い」のであろう。実際の水木しげるさんもしばしば、自分はガキ大将でめったなことでは他の子供に負けなかったと言っているが、だからこそ自分の中の「子供」がシリアスにダメージを受けることのないまま育つことが出来たのだ。ある程度そうなってしまえば、年齢的に大人になってからもそのまま保っていられる、それなりに苦しい経験を経たとしても。

まあ男女論でも年齢論でもなく、各自の性格の違い、としかいいようがないのかもしれないが。

ドラマに戻れば、茂も布美枝も互いにそれぞれ「不完全」なわけで、どちらが正しいとかいいとか悪いとかではない。布美枝さんは茂の、家族と仕事を混ぜたくないという気持ちを分かってあげた方がいいし、茂はもちろんもう少し布美枝さんの心を思いやってあげる必要がある。元凶は…? 「妖怪いそがし」であろう。いくら水木しげるの仕事が価値があるとはいえ、こんなにいろいろ犠牲にして忙しくなるのは何か間違っている。茂さんもそろそろ仕事のしかたを見直すときなのではないか。
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2010年08月23日

第127話 理想(妄想)と現実のハザマで #gegege #nhk #drama

布美枝かわいそう、茂さんひどい、と脊髄反射的には思ってしまう……が。

<茂はわざわざ「行ってきます」と玄関を出て、改めて入りなおして仕事場に入りなおす「出勤」をするようになっていた。なんでそんなことわざわざするのかといぶかしむ布美枝。

弟の貴司から大きな荷物が届いた。喜子に頼まれた「鬼太郎の家」だという、手作りの小さな家が入っていた。手紙も同封してあり、あれから仕事も軌道に乗り、妻子と温泉に行ってゆっくり話したりした、とある。

そこへ茂の兄雄一がやってきた。マネージャーの光男、経理の佐知子と雄一、茂の4人はなにやら顔をつき合わせて深刻そうな話をしている。布美枝がお茶を持っていき、お義兄さんこんな時間に珍しいですね、というと、自分も重役の一人だからこの一大事を見過ごすわけには行かない、という。
「一大事?」
「あれ、布美枝さん聞いとらんのか?」
「仕事のことだけん、お前は口を出さんでええ」
と茂。弁護士がどうの、全額回収は難しい云々、となにやら財政上の問題らしく、4人は難しい顔。布美枝が立ち尽くしていると
「なにしている、向こうへ行っとれ」

「なんだろ、みんなで深刻な顔して。私にはなにも話してくれん…」

喜子が学校から帰ってくる。お父さんを描いた絵をほめられた、と得意げに見せるが、その絵の茂にはひげがあった。
「あれ?お父ちゃんひげなんかあったっけ?」
そこへ茂がやってくる。布美枝が喜子の絵のことを言うと、
「絵は自由に書けばええんだ。ひげを描くなんて喜子は想像力があるなあ」

茂は仕事が遅くなるので出前を頼んでくれと布美枝に言いに来たのだ。出前ばかりでは飽きるだろうから何か作りましょうかと布美枝がいうと、出前のほうが簡単に食べられるからいい、という。しかも、お茶はアシスタントがいれるからお前はしなくていい、とも。

お父ちゃんの顔にひげがあったかなかったか思い出せない喜子に、ちょっとしか会ってないから無理ないか、
「おかあちゃんもお父ちゃんの顔忘れそうだわ…」
とため息をつく布美枝。

茂の仕事振りを加納郁子が取材に来ている。取材の後布美枝に挨拶に来る郁子。郁子は現在女性雑誌の編集者として働いているようだが、それも今回で辞め、もっと別の仕事に移るのだという。
郁子は深沢のことはまだ気にしていて、あんなふうに辞めてしまったからこそ、自分もがんばらなければならないと思うし、深沢にもがんばっていてほしいと思っている。
郁子の口から、先日茂と雄一らが深刻そうに話していた問題のことも聞く布美枝。ある出版社が倒産して、原稿料を回収できない状態らしい。
自分にはなにも教えてくれないことに改めて呆然としてしまう布美枝。

だがそうとは知らぬ郁子は、茂と布美枝、そして子供たちが写った家族写真を見て、布美枝さんは水木先生にいつも守られていて羨ましい、私にももしかしたらそういう別の生き方があったのかもしれないと最近思う、という。
だが布美枝は釈然としない。自分だけなにも知らされずにいるようなこの状態が「守られている」状態なのか。

布美枝は、珍しくも、茂に手紙を書いて自分の胸のうちを伝えようとした。
家族なのだから、なんでも打ち明けてくれなければさびしい、あまりに忙しいようで体も心配だしもう少し仕事を減らしたら、と。
ところが茂は、机の上に置かれていたその手紙を読み
「分かっとらんな…」
と一言。

布美枝は掃除しようとしたとき、没原稿とともにごみばこにそのまま捨てられていた手紙を見つけて呆然とする。おりしもアシスタントたちが、茂がまた新たな連載を引き受けてしまった、残業代出してくれないと割に合わないとぼやいでいるのも耳にしてしまう。布美枝の願いはないがしろにされたのだ>

こういう男性は多いのだろうと思う。いや、男性だから、というわけでもないのだろうが…。
布美枝の気持ちは痛いほどわかるし共感するが、しかし茂の気持ちや考えも分からないではない。
よく言えば、それこそ「心配かけたくない」という気持ちだ。
藍子が学校での嫌なことを言わずにいたのも根っこは同じだ。
家族なんだから何でも話してほしい、何でも共有したい、というのは正論に聞こえるが、家族だからこそ余計な心配させたくないというのも、おそらくかなり多くの人が共通してもつ気持ちだろう。
心配させたくない、という「思いやり」ももちろんあるし、「心配されると面倒だ」という利己的な気持ちもまたある。なにしろ家族は干渉してくるからね。人は意外にも、困っていてもできるところまでは自分で何とかしたい、という気持ちが強いのだと思う。よその人なら干渉するのにも遠慮があるが、家族は遠慮がないから面倒くさい。
私の仲間の一人がつい先日お母様を亡くされたが、そのお母様はがんの再発を自分で知っていたがお父様(つまり御夫君)にはそれを言わなかったらしい。やりたいことがたくさんあるのに、うっかり言ったら止めさせられてしまうから、という気持ちだったのだ。結果としてお父様は余命がもう一月、というころになって初めてそれを知り、ショックを受けていたという。お父様にとっては二重三重のショックだったろう。最愛の人の命があとわずかであるというショックにくわえ、何で自分にそれを言ってくれなかったんだ!というショック。
お父様に深く同情してしまうが、お母様の気持ちもこれまたよく分かる。

茂が「分かっとらんな」といったのは、布美枝が「家族なんだから言ってくれなければ」と書いたことについて、そうではなく、家族だからこそなんだ、と思ったからなのではないか。
とくに茂のように家で仕事をしている人にとっては、家族がむやみに仕事に口を出すと、それこそ仕事を離れて心身を休める場がなくなってしまう。実の兄や弟が仕事にがっちり食い込んできているのだからなおさらだ。わざわざ玄関をいったん出て入りなおすのも、仕事と家を分けたいからに相違なく、それも分からない(と見える)布美枝に対して茂が
「分かっとらんな」
というのは致し方ない。
ただし、やっぱりその部分だけでも伝えなければ。今週中にはそうなるんだろうけども。
そこを言わずにいて、分かっているはずだ、というのはまた茂の側での「家族幻想」である。

家族やら恋人どうしやら、という関係は実は本当に難しい。
「こうであるはず」
という世間的な「像」があり、そこからはずれてしまうと必要以上に悩んだり、逆にその「像」を信じ込んで現実とのズレに気づかずにいて事態が悪化することもある。互いがもっている「像」自体がズレてしまっていることもよくある(というかほとんどの場合は多かれ少なかれズレているのだ)。

「家族だから隠し事をしない、心配事は分かち合う」
というのもかなり一般的に力を持っている家族幻想の「像」であろう。

家族云々に限らず、人の精神的な「悩み」のうちの多くは、なんらかのかたちで「あるべき」と思い込んでしまった姿に対して、現実がこうであるとこれまた「思い込んでしまった」姿とのズレに生じるのだと思う。現実をそのまま、あるがままに受け入れれば何も問題のないはずのところで、問題をわざわざ作り出すのが人間の心の厄介さだ。
もちろん私自身、ある程度こうやって分かっているつもりなのに、まさにその構造の悩みにいつもまみれてしまっているような気がする。私を悩ませているものはいつだって現実ではなく、妄想なのだ。
私も布美枝と同じような「家族なのに。夫なのに。パートナーなのに」的な不満をたくさん抱えていた&いる。そのくせ自分だって、決して家族らしく妻らしくパートナーらしくということを遵守(?)していたりはしないのだ。私の実家の家族や古今のパートナーたちは幸い(?)それこそ茂に似たタイプで、そういう余計なことはどちらかといえばあまり考えない人々だったように思う。私がひとりでクヨクヨしジタバタしブツブツ言っていたが、思い出してみても今まで私自身はその手のことで文句を言われた(もっと「○○らしくしろ」的な)ことはない。

まあNFだからね。NFは「理想主義者」なので、理想と現実のギャップに悩む、という陥穽に陥りやすいのだ。
だから私は個人的には、「世間の常識」を常に疑ってかかる、という作業をしなければならない。ただでさえ自分で勝手に作り上げた「理想」という妄想にはまりやすいのに、世間が作り上げたものにまで翻弄された日にはたまらない。

もっとも、おとなしく「常識」とやらに従ってやってきたほうが結局はシアワセだったのかなあ、と最近は思わないでもないのだが。やれやれ。中途半端につっぱらかって自己過信して、なんだかな状態になっている…ような気がしている今日この頃。でもそれも「あるべきと思い込んでいる姿」にとらわれているだけかもしれないが。

ドラマのことに話を戻すと、布美枝さんはある意味、ごくごく普通の世間の常識に従っておとなしく生きてきたのである。このドラマが視聴率がいいのは、そういう生き方を大肯定してくれているから、というのも一面ではあるだろう。

郁子が布美枝をうらやましく思っているのも嘘ではない。
だが布美枝は、郁子をうらやましいと思いはしないようだが、その姿を見るにつけ、自分はこれでいいのかという思いが生まれてしまうようではある。
布美枝の場合は必ずしも「家族妄想」というだけではなく、「自分の存在価値」を求めてあがいている(何か役に立ちたい!)というのが本質だろうが。
これからの展開でおそらくは、布美枝が自分のあり方を肯定できるようなことになるのだと思う。

結局のところこのドラマは、必ずしも専業主婦「を」礼賛しているというのではなく、それぞれがそれぞれのあり方を肯定する、ということなのだろう。何かと比べたりせず、自分や世間が作った妄想にとらわれたりせず、現実をあるがままに受け入れ、そこで自分のできることを淡々とやっていく。先週の放送でまさに布美枝が藍子に言っていたことである。
そういえば妹のいずみのエピも帰結はそこだったような。

いま、かなり鬱っぽくなっている私にとってもこのメッセージが必要だと思える。




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2010年08月19日

第125話 高揚感に浮かされる #gegege #nhk #drama

ちょうどこの時期にこの話が来るようになっているのは上手い計算だ。

<支隊長は中隊長の、山にこもって戦おうという提案を退け、翌朝全員切り込み突撃し「玉砕」するという「命令」を下した。その決断は夜の間に、大本営に、士気を鼓舞する壮挙として報告されてしまった。実際は山にこもって戦う方針に転換したものもおり、100人以上が生き残ったのだが、その報告のため彼らは「生きていてはいけない」存在となってしまった。敵前逃亡の罪の責任を取るということで2人の将校は自決させられた。他のものたちも、守備隊の配下に入れられたが、次の機会にはまっさきに切り込んでいくことを求められていた。
しかしその後大きな戦闘のないままに終戦となり、生きて戻ることが出来た。
だが死んでいった仲間たちのことが頭から離れない。
「戦争で死んでいったものたちは…かわいそうですな…。みんな、死にたくなかった…。生きたかったのに、命令のために、文句もいわずに死んでいった…」
茂の夢には最近、よく死んでいった仲間たちが出てくるという。
それを聞き、自分たちもそうだという三井と笹岡。
映画のようにはっきりと夢を見、仲間たちはみな、村井、俺たちのことを描いてくれ、と言うのだという。
「……」
黙ってじっと茂の顔を見る三井。目頭を押さえ嗚咽する笹岡。
布美枝の頬にも涙が伝う。

喫茶店で絹恵と藍子。
藍子は留美子に、漫画に出してくれと頼まれたがそれが結局できず、責められた話をしたらしい。
「ばかばかしい!漫画に描いてもらえんくらいで何を怒っとるのかね!」
と絹恵。
留美子は藍子を嘘つき、と責め、他の女子たちもそれに同調し、藍子と仲の良い智美まで連れて行ってしまう。
それで誕生会に行けなくなってプレゼントを抱えてうろうろしていたのか、と呆れたような同情したような口調で言う絹代。はじめからきっぱり断ればいいのに、いい顔をしようとするからそげなことになる、と容赦ないが、それでも、約束したわけではないし嘘をついたわけでもいないということを確かめると
「ほんなら、ほっときなさい」
人がなんといおうと、自分が間違ってなければそれでいい、言いたいもんには言わせておけ、と。
絹代自身、戦時中に竹槍訓練がばからしいと思って参加せずにいたら、隣組長が怒鳴り込んできた、でも
「竹槍で戦争には勝てやせん!」
と追い返した、と笑う。悪口を言う人もいるけどそんなの気にすることない、と。
だがせっかく布美枝が用意してくれたプレゼントを捨てようとしたのはいけない、ちゃんと話して返しなさい、でないと本当の嘘つきになるよ、と諭す。素直にうなづく藍子。
「なにか言われたらこげ言えばいい、名字帯刀御免の家柄ですけん!!」
勢いよくテーブルを叩いて笑う絹代。藍子も笑う。

それで布美枝に事の次第を話した藍子。布美枝は優しく聞いてやり、
「お母ちゃん、藍子の話、もっとよう聞いてあげればよかったね…」
でも藍子は、お父ちゃんにそんなこと頼めないことは分かっていた、それなのにはじめからはっきり断れなかった私がいけなかった、と納得しているようす。だが、学校で「ゲゲゲの娘」などとからかわれるのが嫌なのに、はっきり嫌と言えない自分がはがゆい。
「お母ちゃんと一緒だなあ…」
と布美枝。小さい頃背の高いことでからかわれたがなかなか言い返せなかった。
「お母ちゃんも藍子も、ちょっこし内気だけんね」
「……」
なにか嬉しい気持ちになったらしい藍子の頬に赤みが差す。
「でもきょう、お父ちゃんがええこと言っとったよ」

お父ちゃんは昔からくよくよしなかったんですね、と茂に話しかけた布美枝。怪我をしても悲観せず、明るかったと笹岡さんも言っていた、と。
ないものを嘆いても始まらない、と茂。工夫して人に負けないような仕事をすればいい、弱いところは誰にでもあるが、くよくよせず前に進む強い意志が必要だ、と。
「俺はな、お母ちゃん。幸運だったと思っとるよ。……腕一本なくしただけで生きて帰れたんだからな」

「お母ちゃんも藍子も、お父ちゃんのまねして、くよくよしないで、自分のできること頑張ればいいんだわ」
と藍子に言う布美枝。
「うん!」
笑顔でうなづく藍子。
「お父ちゃんのたくましいところは、おばあちゃん似だね」
そこへ修平が鼻歌を歌いながらやってきて、小腹が空いたがまんじゅうでもないか、と布美枝に尋ねる。

「食いしん坊なところは、おじいちゃんに似たんだね」
こっそり布美枝に囁く藍子。笑って顔を見合わす二人。
「どげした?何が可笑しいか? ははははは!」
何が可笑しいのか分からないままに一緒になって大笑いする修平>

「生きちょるだけで丸儲け」
結局あんまり好きになれなかったドラマだったけど、「わかば」でおばあちゃんがこれを口癖にしてたっけ。せっかくのこの言葉がいまひとつ素直に心に響かなかった(おばあちゃんがこれを口にするたびになんか不自然なあざとさを感じてしまった)のはやっぱり脚本とか演出の練りの弱さだったのかしら。
てなドラマ論は柄ではないが、きょうの放送でこの言葉を思い出した。そういえばあのドラマも阪神淡路大震災を扱っていたし、戦争と同じく多くの人が望まぬ死を遂げたことが背景にあったんだよなあ。

しかし戦争は地震などの天災よりもっとたちが悪い。だって戦争は完全なる「人災」で、そう思うと怒りが湧き上がってきてしまうもの。

先日お盆のころにNHKで放映された「十五歳の志願兵」も珍しく見たが、そのときと似たような感想をきょうの放送に対しても持った。
みすみす死ぬことが分かっていて、そしてしかもそれによっても「勝ち目はほとんどない」と分かっていても、激情に「酔って」愚かな決断を下してしまう。だれかのそういう愚かさによって死なされてしまうことの無念!!「うっかりミスで」のほうがまだしもマシだと思えてしまうぐらいである。

この手の激情はしばしば「正義感」とかいう名でも呼ばれる類のものだ。
同じように、「自分は間違っていない」と思うにしても、たとえばイカルのような態度なら「我が道を行く」のであり、責任は自分でとるだろう。
だが往々にして自分の勝手な「正義感」を唯一無二のものと思い込み、それを他にも強要する人が多くいる。たとえば竹槍訓練を無視するイカルに対して怒鳴り込んできた隣組の組長はそういう類だろうし、昔見た「あぐり」でもパーマをとんでもない!とねじ込んできた婦人会の人々とかいたなあ。そうそう、「俗悪」漫画を糾弾していたあの人たちもそうだよね。

みんなで「力を合わせて何かをやり遂げる」というコンセプト自体は、私は大好きである(だからこそサンバなんぞやっていられる)。なかなか得難い感動を得ることができる。
けれどこの手の感動は本当に、「諸刃の剣」である、とはちゃんと心得ているつもりだ。
みんなで力を合わせなければ!と思う人は、その点で善意であっても、そのために盲目になってしまうと危険だ。熱情を持ち、感動を味わいながらも、冷静な目を忘れてはいけない。

だが戦時中、そんな冷静な目を持つことは何重の意味でも難しかったろう。シモジモのものにとっては情報は限られ、操作もされていただろうし、一般庶民が自立した意識を持つような環境にはそれまでもなっていなかっただろうし。
それに事態は「未曾有の国難」である。為政者にとっては、足並みを揃えてくれなければもうどうにもならない状態だった。国民が一致団結してくれれば、あるいは奇跡が起こるかも、と思ったのは必ずしも嘘ではないだろう。
「十五歳の志願兵」でも(見てない人にはごめんなさい)、きりりとした卒業生の将校が、今戦っているものたちを見殺しにするのか!国なくして個人はない!という論調で熱く語り、それが少年たちの心を動かした。そして、その場の一同が同じように感動した、というそのこと自体がまた皆の心を熱くした。連帯感というやつである。
私がその場にいて15歳の少年だったとしても、感動してしまったことだろうと思う。

戦況が悪く閉塞感もあるところではなおさらだ。高揚感が「必要」だったのだ。為政者側だけではなく、庶民にとっても。

ドラマに戻って、茂たちの状況では、しかし、支隊長以外はそんなに高揚している感じはない。高揚することも出来ずに死なされてしまったのかと思うと哀れでならない。
またも(すぐに)脱線するが「十五歳の志願兵」の坂町少尉は「愚かにも勝手に酔っている」ようには見えなかったけれども…。その愚かしいことが分かっていながらも、むしろ職務を全うすべく冷静に計算して少年らを煽っていたように見えた…。というのも演じたのが、若手俳優では「古典的りりしい顔立ち」ナンバーワンだと思える福士君だったからかも。彼を「愚か」と思いたくないひいき目かも(?)。
しかし、愚かでなかったら逆にもっと憎むべきかもしれないが。

ともあれ、「戦っているものたちを見殺しにするのか」というようなセリフは、その時点では効力を持ちうる。戦争で命を落としたものたちの中には、この戦争が「ばからしい」ものであったことを分かっていたものもけっこう多かったかもしれない。だが、必ずしも「正義感」なんてものではなく、身を挺して家族や友人など愛するものを助けなければならない、守らなければならない、と思ったのではないか。

おっとと、ちょっと待て、すっかり別のドラマの私評になりつつある。これもまた対象として興味深いが、ここではこの辺にしておこう。

****
てことで話をちゃんと元に戻して
「生きちょるだけで丸儲け」
である。
そして布美枝が藍子に言った
「お父ちゃんのまねして、くよくよしないで、自分のできること頑張ればいいんだわ」
は、シンプルながら力強いメッセージだ。

折しも今日の夕刊に、ゲゲゲが近年の朝ドラに珍しく高視聴率であることをとりあげた論評が載っていた。その分析では、高視聴率の秘密は、主人公の布美枝が「専業主婦だから」という点にもあるという。それは私もそうだと思っていた。
本当はこのドラマの狙いは「専業主婦」そのものにあるのではなく、「人を支えて生きる」立場にあるのだろう。その論評でも引き合いに出していたが、ちりとてちんで喜代美が最後に「お母ちゃんになる」と言ったのも同じ路線のことだ。ちりとてでも最初から、「主役にライトを当てる照明係」というコンセプトが打ち出されていた。

新聞の論評のほうは、人々が古典的な家族の在り方に懐かしさや癒しを感じているのだろうと分析し、自分も現代の社会に疲れを感じているからその気持ちは分かるが、だがだからといってこれまで頑張って作ってきた男女役割の平等がないがしろにされていいわけではなく、昭和を懐かしがらずに済むような社会を模索していかなければならない、というようなことで締めくくっていた。おおむね同意である。
女性は専業主婦であるべき、のように男女の役割が固定化されるのはやはり好ましくないと思うが(その点で、何度も何度も言ってきたが、このドラマの高視聴率ぶりは単純には喜べない)、たしかに今の女性が、男性と同じように働け(るようになれ)ばいいというものではないのだ。世の男性も必ずしも自己実現して幸せに生きているわけではない。

主役にならなくても幸せになれる生き方、いや「幸せになれる」ではなく、すでに「幸せであることに気づく」生き方を、男女問わず、考えた方がいいのだと思う。男でも女でも、そして専業主婦でも仕事を持っていても、関係ないのである。



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